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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
     二 継体天皇進出の背景
      越前における農業の発展
 継体天皇が『記』『紀』の記すように経緯の違いがあったにせよ、ヤマト朝廷の大王に迎えられたことは、その実力が広く天下に認められていなければ可能でなかったであろう。継体天皇進出のエネルギー源として、少なくとも四つの要素を考えることができる。
 第一は、米を主体とする農業である。越前における継体天皇伝説は非常に多いが、その大部分は治水に結びついたものである。そのすべてを荒唐無稽と退けることは、かえって歴史の実情から遠ざかることになるであろう。それは五世紀末ごろにおける九頭竜川水系における農業の発展を反映するものではなかったか。技術革新が進行すると、元来肥沃な越前平野の生産力は飛躍的に増大していったに違いない。

表9 『弘仁式』『延喜式』にみえる公出挙稲

表9 『弘仁式』『延喜式』にみえる公出挙稲
    注1 『弘仁式』主税上は断簡による前欠のため、畿内・東海道の諸国および近江国の数値は不明
       である。したがってそれら以外の確認できる国を多い順に列挙した。
    注2 『延喜式』の越前国は1,028,000束、加賀国は 686,000束である。

 表9に示すのは、『弘仁式』ならびに『延喜式』主税上に記されている公出挙稲の数値である。もとより米の総収穫量を示すものではないが、まったく無関係とも考えられない。『弘仁式』において越前(加賀を含む)の出挙稲数値は、陸奥・肥後・上野についで全国第四位である。『延喜式』においては越前・加賀に分かれているが、もしこれを合算するならば全国第二位となる。これらは平安時代の史料であるが、六世紀ごろの実情をまったく反映していないとも考えられない。陸奥・肥後などはおそらく律令制以後の発展が顕著であろうから、古墳時代後期ごろには越前の米生産力が全国一であった可能性さえ否定しえないのである。



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