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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
    一 継体天皇の出自
      三尾氏と三国氏
 さてこの三尾氏の本貫は、従来近江と考えられてほとんど疑われなかった。近江高島郡には三尾郷と水尾神社(写真31)があり、かつ彦主人王の別業も三尾にあったと記されていることから、そこに三尾氏も存在したものと考えられてきたのである。
写真31 水尾神社

写真31 水尾神社

 三尾氏が越前の豪族であるという見解が広まらなかったのは、越前に三尾という地名が見あたらないためであった。しかし、天平五年(七三三)の「山背国愛宕郡某郷計帳」(文五)に「越前国坂井郡水尾郷」の記載があり、『延喜式』の北陸道の駅名のなかに「三尾」が存在している。丹生―朝津―阿味―足羽―三尾の順序からいって、三尾が坂井郡のなかにあったと考えられる(第一節、第四章第三節)。すなわち現在の地名にはみられないが、坂井郡内に三尾または水尾という地名はたしかに存在していた。
 三尾君堅の娘倭媛の生んだ椀子皇子を三国公の祖と『紀』は記す。三国氏は天武天皇十三年(六八四)「真人」の姓を受けて三国真人となり、奈良朝に至っても坂井郡の雄族として活躍している。三国氏の本拠が坂井郡であることは確実であるが、三尾氏は後世まったく姿を消してしまうことになる。したがって、三尾氏が三国氏と名称を変えて存続していったと考えられるわけだが、その根拠を述べる前に、まず三国とは何かを考察しなければならない。



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