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 第二章 若越地域の形成
   第二節 継体王権の出現
    一 継体天皇の出自
      気比大神
 さらに継体天皇出現の舞台となった越前から近江にかけて、無視できないのは、応神天皇と角鹿(敦賀)との深い関係を示す説話である(『紀』応神天皇即位前紀、『記』仲哀天皇段)。すなわち即位以前の応神天皇が敦賀に来て、笥飯(気比)大神と名前を交換したことになっている。笥飯大神の名はイササワケ、応神天皇の名はホムタワケであるが、本来、大神はホムタワケ、応神天皇の元の名はイササワケであったのではないかと、『紀』の編者は疑っている。『紀』編纂のころ、この話の真の意味は理解されないようになっていたと思われるが、それにもかかわらず『記』『紀』ともに同じような話が採録されたのは、この説話の起源が古く、捨て去ることができなかったためであろう。名前を交換することは、両者が非常に親密な関係であったことを示している。
 気比大神の名イササワケは、新羅の王子天日槍のもたらした神宝の一つ胆狭浅の大刀と関係あるであろうし(『紀』垂仁天皇三年三月条)、天日槍を系譜上の祖とするオキナガタラシヒメが新羅遠征に出かける前に敦賀の笥飯の宮にいたと伝えられていることなどを考えれば、息長氏と気比神とのつながりは否定できない。越前から近江にかけての地域は、応神王朝成立の有力な基盤であったのであり、それが一〇〇余年の歳月を隔てて、『記』『紀』ともに応神五世の孫と伝える継体天皇の本拠となったことも、偶然とは考えられないのである。
 継体天皇の勢力基盤として、商業活動を重要な要素と考える説もある(岡田前掲論文)。近江地方の古墳群について検討すれば、湖上水運を軸とした交易活動の可能性が考えられる。彦主人王が本拠地ではなく「三尾の別業」にいたと記されている点も、こうした推測を助けるものであろう。本来湖東を地盤とする息長氏が、もし湖西に進出したものとすれば、商業活動のためであるかもしれないし、また滋賀県マキノ町の製鉄遺跡と関連した鉄資源開発のためかもしれない。



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