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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     四 古墳からみた継体王権
      継体天皇陵と手白香皇后陵
 継体天皇陵は、『延喜式』諸陵寮によれば、摂津国嶋上郡三嶋野に所在していたことになっている。現在、宮内庁によって管理されている継体天皇陵は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市、前方後円墳、二二六メートル)であるが、これは嶋下郡に属し、墳丘形態や埴輪などから五世紀中ごろに比定されている。一方、嶋上郡に所在する六世紀前半の二重周溝をもつ大規模な前方後円墳には今城塚古墳があり、これが継体天皇陵であると古くから指摘されている。
 そうすると、継体天皇は三嶋野と有縁の人物となる。三嶋野には、古墳時代前期の弁天山B一号墳(大阪府高槻市、前方後円墳、墳丘長一〇〇メートル)や中期の太田茶臼山古墳をへて、後期の今城塚古墳へと連綿と続く三嶋野古墳群があり、継体天皇はこの系譜に連なる人物と考えるのが自然であろう。継体天皇の父彦主人王は、「近江国高島郡三尾の別業」(『日本書紀』)、「弥乎国高島宮」(『上宮記』)にいたのであるが、その本貫地については記載がない。しかし、継体天皇と深いかかわりのある三嶋野をその本貫地とすれば合理的に理解することができる。三嶋野は継体天皇の有縁の土地であったとすべきであろう。
 一方、手白香皇后陵(衾田墓)は、『延喜式』諸陵寮によると、大和国山辺郡にあり、城上郡にあった崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)の陵戸に兼ね守らしめたことになっている。崇神天皇陵は柳本古墳群(奈良県天理市)に所在した可能性が強く、それに北接する山辺郡内における六世紀前半代の比較的大規模な前方後円墳は、大和古墳群(奈良県桜井市・天理市)の西山塚古墳(天理市、墳丘長一一六メートル)しかなく、現在治定されている西殿塚古墳ではなく、西山塚古墳が衾田墓である蓋然性はきわめて大きい。しかも、新池埴輪窯跡(大阪府高槻市)で焼成された埴輪が、太田茶臼山古墳や今城塚古墳はもとより西山塚古墳にまで搬入されていることは、そのことを一層裏づけているようである。
 継体天皇にはじまる継体王権については、すでに応神天皇の正統な系譜ではなく、その后の手白香皇后を通じて大和の王統につながるといわれ、継体天皇は入り婿の形で王統の継続性を主張したと考えられている。それゆえ継体天皇陵は、その前の応神王朝の墳墓の地である古市(大阪府羽曳野市)・百舌鳥(同堺市)の両古墳群を離れた継体天皇の有縁の地、三嶋野に営まれたのである。また、応神王朝につながる手白香皇后陵をその父仁賢天皇陵の所在する古市古墳群中に営まず、初期ヤマト政権の大王墓の営まれた大和古墳群中に営んだところにこそ、継体王権の旧王統を引き継いだという自負と真意がくみとれるのである。
 これ以後の大王墓については、今城塚古墳と同じ剣菱形前方後円墳であり、古市古墳群の西方の高鷲の地に営まれた安閑天皇陵に比定される河内大塚古墳(大阪府豊中市、三三〇メートル)や、奈良盆地南部の身狭の地に営まれた欽明天皇陵に比定される見瀬丸山古墳(奈良県橿原市、三一〇メートル)などがあげられる。
 これら二つの古墳は、その始祖である今城塚古墳の近くに営まれることもなく、また旧来の有力な古墳のなかに含まれるわけでもない。その巨大さにより、大王権力が従来にまして隔絶したことが理解されるが、その地域的・氏族的基盤を離れていることが注目される。この段階の大王墳は、連合政権としてのヤマト政権の盟主の地位を示すものから、諸豪族から完全に超越した権威として確立したものに変質したものと理解され、またそれは単なる同盟の盟主として従来のようにその構成員が交替しうる性格のものでなくなっていることを示すもので、その権力を支える勢力の動向とも関連して、転々と陵墓は移動するようになったと考えられているのであるが(白石太一郎「巨大古墳にみる大王権の推移」『日本古代史』四)、まったくそのとおりであろう。



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