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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     四 古墳からみた継体王権
      横山古墳群にみる各地との交流
 横山古墳群の六世紀代の前方後円墳をつぶさに観察すると各地の影響がみられ、幅広い交流のあったことがうかがえる。
 椀貸山一号墳(丸岡町、墳丘長四五メートル)や同二号墳(二六メートル)は、盾形の周溝をもつ前方後円墳であるが、越前では前方後円墳は山上に築かれるのが一般的であって、これらの古墳以外に盾形の周溝をもつ前方後円墳は確認されていない。周溝をもつ前方後円墳はヤマト政権の大王墓や有力豪族に多くみられることから、これらの古墳の存在はヤマト政権との親密さを示すものと考えられる。
写真30 今城塚古墳

写真30 今城塚古墳

 中川奥一号墳(金津町、墳丘長四七メートル)や同二号墳(四〇メートル)の前方部先端は剣菱形を呈し、いわゆる剣菱形前方後円墳といわれる墳丘形態を示す。これは、継体天皇陵に比定できる今城塚古墳(大阪府高槻市、墳丘長一九〇メートル、写真30)と同じ墳丘形態・規格を示し、これら古墳の被葬者と継体王権との密接な関係がうかがえる。
 椀貸山古墳や中川奥一号墳は、尾張型埴輪(円筒埴輪の外面二次調整にC種ヨコハケを有し、かつヨコケズリまたはヨコナデによる底部調整を施す)をもつ。尾張型埴輪は、まず尾張に成立し、若狭・越前・加賀・能登に伝播したことが明らかになっていることから、これらの古墳の被葬者と尾張の豪族との親密さがうかがえる。
 椀貸山一号墳と神奈備山古墳(金津町、墳丘長五八メートル)はともに、横穴式石室に石屋形をもつことが判明しているが、石屋形は九州の古墳に数多くみられることから、九州の豪族との交流もうかがえる。
 このほか、横山古墳群のなかで陶棺や箱形粘土槨の存在も確認されており、大和や加賀との交流もうかがえる。
 これら各地の豪族と、横山古墳群の古墳時代後期の前方後円墳の造営者と考えられる三尾氏との交流の痕跡は、当時の政治世界の激動を証明するものであり、その渦中に三尾氏も身をおいたことが知られるのである。



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