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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     二 越前・若狭の前方後円(方)墳
      若狭の広域首長墳
 若狭の広域首長墳は、若狭で最も広い平野をもつ北川流域に集中するものの、大鳥羽・脇袋・天徳寺・日笠と転々と上流地域から下流地域へとその位置を変えている(図23)。初代の城山古墳は、標高一三三メートルの尾根頂部に築かれるが、二代以降は山麓部の平地に築かれる。いずれの古墳も整った形をなし、外部施設として葺石・埴輪・段築を有するが、山上に築かれた城山古墳以外はすべて盾形の周溝をもつ。
図23 若狭の広域首長墳の分布

図23 若狭の広域首長墳の分布

 内部構造および出土品の明らかな古墳は、西塚古墳と十善の森古墳であり、いずれも横穴式石室を後円部に有すると推定されている。
 西塚古墳の石室内からは、中国製神人画像鏡一、製四獣鏡一、武器(剣・鉾・鉄鏃)、武具(眉庇付冑・衝角付冑一・頚甲一・肩甲一・横矧板鋲留短甲一)、馬具(鉄地金銅張鏡板一・同辻金具二・同剣菱形杏葉二)、農工具(鉄斧二・砥石二)、装身具(金銅製帯金具八以上・銅鈴六・銀鈴三・金製垂飾付耳飾二・玉類)、須恵器などが検出されている。
 一方、十善の森古墳の後円部石室からは、流雲文縁方格規矩鏡一、武器(刀・剣・ねじり環頭・金銅製三輪玉・鉄鏃)、武具(胡金具)、馬具(鞍金具・木心鉄板張輪鐙・金銅双竜文鈴付鏡板・鉄地金銅張杏葉・同辻金具・環鈴)、獣面打出金具、装身具(金銅冠・勾玉・管玉・トンボ玉・棗玉・丸玉・小玉)が、前方部石室からは刀・剣・須恵器・土師器が検出されている。
 両古墳の主石室内部は赤く彩色されており、その構造は前者は番塚古墳(福岡県苅田町)や関行丸古墳(佐賀市)に近く、後者は竪穴系横口式石室の可能性が強いと考えられ、いずれの古墳も九州の影響を受けており、すぐれた副葬品の数々は朝鮮半島との日本海を通しての交流をうかがわせる。
 五世紀後半代には、前方後円墳の中塚古墳(上中町、墳丘長五五メートル)・向山一号墳(上中町、四八・六メートル)・白髭神社古墳(小浜市、五六メートル)・国分古墳(小浜市、墳形・規模など不明)が広域首長一族の墓として築かれている。
 向山一号墳は、九州の影響を受けた本州最古級の横穴式石室(玄室周壁の壁石が中位からはじまる特異な構築法は、玄室床面に石障を配置した筑後・肥前地域の石室の周壁構築法と同じである)をもち、そのなかから製内行花文鏡一、製鋸歯文鏡一、武器(刀七・剣四・鉾三・槍一・刀子四以上・盾隅金具三・金銅製三輪玉一、鉄鏃の長頚鏃二束約三〇と平根鏃一)、武具(三角板革綴短甲二)、装身具(金製垂飾付耳飾一・竪櫛二二・玉類)が、前方部副葬施設からは武具(長方板革綴短甲一)、武器(刀七・鉾二・槍一・鏃三束約五〇・銀製金具)が検出されている。また、国分古墳からは中国製画文帯仏獣鏡が発見され、今に伝えられている。
 平野の少ない若狭の広域首長墳が、越前の広域首長墳と対等か、後期にはそれ以上に隆盛をみせるのは、ヤマト政権との政治的な親密さによるものである。すなわち、ヤマト政権は古墳時代前期には丹後や越前の広域首長と密接な関係にあったが、中期後半になるとそれらに代わって、若狭の広域首長と親密な関係を結ぶようになったと解されている。それは、若狭地方の高い航海術・海運力や塩・海産物がヤマト政権にとって必要となり、若狭が「御食国」として新しく位置づけられたことによるものであろう。事実、このころより若狭の土器製塩は盛んになってくるのである。
 また、若狭の広域首長は、膳臣に比定されている。その根拠は上中町脇袋背後の山が「膳部山」と呼称されていて、付近に大型の前方後円墳が所在することである(斎藤優『若狭上中町の古墳』)。
 膳臣は、『古事記』『日本書紀』によれば、大王家の食膳を司る豪族であったが、のちには将軍として朝鮮半島にも派遣されているのである。その活動時期と若狭の広域首長墳の隆盛とが重なることから、若狭の広域首長墳は膳臣に比定されることになったのであり、多くの研究者に支持されているのである。



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