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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     二 越前・若狭の前方後円(方)墳
      越前の広域首長墳
 越前の広域首長墳は、九頭竜川を挟んだ平野を見おろす高い山頂などに集中して立地するが、この位置は、南北約二〇キロメートル、東西約一〇キロメートルの福井平野のほぼ中央部の東辺にあたり、平野を潤す用水の取水口をおさえる要所である(図21)。
図21 越前の広域首長墳の分布

図21 越前の広域首長墳の分布

 広域首長墳は、すべて標高約一六〇〜二七三メートルの山頂に所在するが、これは広域を見渡せ、広域を支配する首長墳なればこその立地といえる。ただ、いずれの古墳もやせ尾根を利用して築かれているため、整った前方後円墳の形態をなしていない。
 広域首長墳は当初九頭竜川左岸に、二・三代のそれは続けて右岸に、四代以後は再び左岸に継続して築かれている。このことは、広域首長の初代は左岸の松岡地域の、二・三代は右岸の丸岡地域の、四代以降は再び左岸の松岡地域の首長があたるとともに固定化するところから、この時期になって広域首長が世襲されるようになったとも考えられる。
 墳丘の外部施設としての葺石・埴輪・段築であるが、手繰ケ城山古墳、六呂瀬山一・三号墳はすべてを有する。石舟山古墳・二本松山古墳は埴輪をもつのみである。鳥越山・三峰山の両古墳は外部施設をまったく有しなくなっている。新しくなるにつれて、広域首長墳は規模が縮小し、外部施設が簡素化していることがわかる。このことは、越前の広域首長を中心とする越前の地方政権とヤマト政権との政治的な親密さがしだいに減じていることを示すものであり、いいかえれば、ヤマト政権の越前の地方政権に対する優位性が一段と増したことを物語るものである。
 古墳の墳丘規格(上田宏範『前方後円墳』)は、手繰ケ城山古墳、六呂瀬山一・三号墳は同じであり、柳本古墳群(奈良県天理市)の渋谷向山古墳(墳丘長三一〇メートル)、いわゆる景行天皇陵古墳にその類型を認めることができる。また、石舟山古墳・二本松山古墳も同じ墳丘規格のなかでとらえることができ、佐紀盾列古墳群(奈良市)のウワナベ古墳(二五五メートル)や百舌鳥古墳群(大阪府堺市)の大仙陵古墳(四八六メートル、いわゆる仁徳天皇陵古墳)にその類型を認めることができる。鳥越山古墳は、大和古墳群(奈良県桜井市・天理市)の西殿塚古墳(二四〇メートル、いわゆる手白香皇女衾田陵)、佐紀盾列古墳群の五社神古墳(二八〇メートル、いわゆる神功皇后陵古墳)と、三峰山古墳は三嶋野古墳群(大阪府茨木市・高槻市)の今城塚古墳(一九〇メートル、継体天皇陵に比定できる)と同じ類型である。これら古墳規格の類似から、越前の広域首長墳とヤマト政権の大王墳との密接な関係がうかがえるのである。越前の広域首長墳は、これまで正式に発掘調査されたことはないが、工事など偶然の発掘によって、一部内部構造や出土品が明らかになっている。また、近年地中レーダー探査によって石棺の所在とその形態が明らかになった古墳もある。
 手繰ケ城山古墳は割竹形石棺、六呂瀬山一号墳・石舟山古墳・二本松山古墳・鳥越山古墳は舟形石棺である。六呂瀬山一号墳・二本松山古墳・鳥越山古墳にはそれぞれ二個の石棺が所在する。六呂瀬山三号墳や三峰山古墳については石棺の有無は明らかでないが、それらの前後の時期の古墳がいずれも舟形石棺を有していることから、舟形石棺をもつ蓋然性は高い。いずれも、後円部中央に福井市足羽山産の笏谷石(凝灰岩)の石棺を墳丘主軸上に並行して直接埋置するところに共通点がある。越前の前方後円(方)墳で石棺を有するのは広域首長墳のみである。ここにも、広域首長墳の地域首長墳に対する優位性がうかがえる(石棺については三項で詳述)。
 棺内副葬品の明らかな広域首長墳は、二本松山古墳のみである。この古墳からは製四獣鏡一、鍍金冠一、鍍銀冠一、管玉四、鉄刀二、鉄剣一、眉庇付冑一、頚甲一、脇当一、三角板鋲留短甲一、鹿角刀装具などが二号石棺内から検出されている(図22)。この石棺の発見も偶然によるもので、出土品のすべてを伝えているとは思えないが、地域首長墳にはみられないすぐれた副葬品である。
図22 二本松山古墳出土

図22 二本松山古墳出土




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