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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
     二 越前・若狭の前方後円(方)墳
      広域首長墳と地域首長墳
 福井県の古墳総数は約四〇〇〇基であり、そのうち越前が約三〇〇〇基、若狭が約一〇〇〇基である。越前・若狭の古墳総数に占める前方後円(方)墳の割合は、それぞれ約三パーセント、約一・八パーセントときわめて少ない。また、それらは概して円墳や方墳に比べて規模が大きく、そのうえ副葬品もすぐれていることから、それらの被葬者はおしなべて地域首長(そのうちに広域首長を含む)と考えられている。そして、それらの規模の大小は被葬者の勢威の差であり、ヤマト政権との政治的な関係の親密度を示すものと一般には理解されている。
 そこで、越前の前方後円(方)墳を規模・時期別に概観し、その結果、地域首長墳のなかから広域首長(いくつかの地域首長の上に立つ首長で地方首長ともいう)墳を検出することができる(図20)。
図20 越前の前方後円(方)墳の時期別規模

図20 越前の前方後円(方)墳の時期別規模

 すなわち、古墳時代前期(一〜四期)・中期(五〜八期)においては、墳丘長八〇メートル以上のもの(大首長墳)五基、墳丘長六〇メートル以上八〇メートル未満のもの(中首長墳)五基、墳丘長四〇メートル以上六〇メートル未満のもの(小首長墳A)二七基、墳丘長四〇メートル未満のもの(小首長墳B)三六基の四段階に分類する。また、古墳時代後期(九・一〇期)においては、墳丘長四五メートル以上のもの(大首長墳)六基、墳丘長四五メートル未満のもの(小首長墳)一〇基の二段階に分類して、大首長墳を広域首長墳とした。ただし、同じ時期に複数の大首長墳がある場合は、大首長墳のなかで最大規模のものを広域首長墳とする。
 その結果、前期後半〜中期の広域首長墳としては、@手繰ケ城山古墳(永平寺町・松岡町、墳丘長一二五メートル、推定復元規模一四〇メートル)、A六呂瀬山一号墳(丸岡町、墳丘長・推定復元規模一四〇メートル)、B六呂瀬山三号墳(墳丘長八五メートル、推定復元規模一一〇メートル)、C石舟山古墳(松岡町、墳丘長八〇メートル、推定復元規模八五メートル)、D二本松山古墳(松岡町、墳丘長八三メートル、推定復元規模九〇メートル)の五基が該当することが明らかになり、越前最大の河川である九頭竜川が山間部を流れてきて、福井平野に注ぐ両岸の松岡・丸岡両地域の山上などに集中することが指摘できる。また後期の広域首長墳は、E鳥越山古墳(松岡町、墳丘長五八メートル、推定復元規模六五メートル)、F三峰山古墳(松岡町、墳丘長六〇メートル、推定復元規模六四メートル)の二基が該当し、松岡地域に引き続いて築
かれることが明らかになる。
図21 越前の広域首長墳の分布

図21 越前の広域首長墳の分布

 同じような手法で、若狭の前方後円(方)墳を時期別・規模別に分類すると、広域首長墳を検出できる。その広域首長墳の規模は、墳丘長六五メートル以上で、広域首長墳は若狭最大の平野である北川流域に集中し、中期中ごろに出現して後期前半まで継続することが明らかになる。中期から後期にいたる若狭の広域首長墳は、いずれも上中町の@城山古墳(墳丘長六八メートル)、A上ノ塚古墳(九三メートル)、B西塚古墳(六七メートル)、C十善の森古墳(六七メートル)、D上船塚古墳(七〇メートル)、E下船塚古墳(八二メートル)である(図23)



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