後期になると、墳丘墓が全県的にみられるようになる。また一方で、集落から離れた丘陵上に墳丘が築かれるようになるのも大きな変化である。すなわち、一部の人たちだけの墓という意識の変化がみられるのである。原目山三六号墓・原目山二号墓(福井市)、太田山一号墓からうかがえるように、首長とその世帯員を含む墓が集落を離れた丘陵上に築かれる。
しかし、この変化の過程も一様でなく、各地において多様な展開をみせていることは、小羽山古墳群(清水町)の事例が示している。この遺跡は、弥生時代後期の墳丘墓(低塚)や古墳時代の円墳・前方後円墳を含む約三五基からなる墳墓遺跡である。墳墓は丘陵尾根上に連続して築かれているが、弥生時代の墳丘墓のなかには、小羽山三〇号墓といわれる北陸で最古の四隅突出型墳丘墓がその東南部に築かれている(図15)。四隅突出型墳丘墓は方形の墳丘の各四隅に土を盛り上げて張り出す形の墓で、この形は山陰地方に集中してみられ、全国でこれまでに四四例が知られている(古川登の教示による)。この小羽山三〇号墓の突出部を含めた全長は三三×二七・五メートル、高さ二・七メートルで、そのうち四隅には長さ五メートル、幅六メートル、高さ三〇センチメートルの張り出しをもつ。墳丘のほぼ中央部に長さ三・五メートル、幅一メートルの箱形木棺を納め、副葬品として碧玉製管玉(八〇個)、ガラス製の管玉(一〇個)、勾玉、木製の鞘・柄を残す長さ三四センチメートルの鉄剣が納められていた。
四隅突出型墳丘墓を含む弥生時代の墳墓群には大きな時期差はみられず、土器型式も法仏期(弥生時代後期後葉)に比定されるという。小羽山の墳丘墓を造ったムラでは、墳丘墓の埋葬者は一般の人とは区別された上位の階層にあり、四隅突出型墳丘墓という山陰地方とのつながりがうかがえる特徴のある墓に埋められていることは、この埋葬者がこの階層のなかでも中心的な位置を占めていたと考えられよう。首長としての個人の力がこの時期に出てきた表われといえる。しかし、ほかの墳丘墓とは区別されつつも隔絶の度合いはあまり強くない。したがってこの地域の階層分化の成熟度はそれほど進展していなかったといえる。 |