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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    四 村と墳墓
      首長墓へ
 後期になると、墳丘墓が全県的にみられるようになる。また一方で、集落から離れた丘陵上に墳丘が築かれるようになるのも大きな変化である。すなわち、一部の人たちだけの墓という意識の変化がみられるのである。原目山三六号墓・原目山二号墓(福井市)、太田山一号墓からうかがえるように、首長とその世帯員を含む墓が集落を離れた丘陵上に築かれる。
 しかし、この変化の過程も一様でなく、各地において多様な展開をみせていることは、小羽山古墳群(清水町)の事例が示している。この遺跡は、弥生時代後期の墳丘墓(低塚)や古墳時代の円墳・前方後円墳を含む約三五基からなる墳墓遺跡である。墳墓は丘陵尾根上に連続して築かれているが、弥生時代の墳丘墓のなかには、小羽山三〇号墓といわれる北陸で最古の四隅突出型墳丘墓がその東南部に築かれている(図15)。四隅突出型墳丘墓は方形の墳丘の各四隅に土を盛り上げて張り出す形の墓で、この形は山陰地方に集中してみられ、全国でこれまでに四四例が知られている(古川登の教示による)。この小羽山三〇号墓の突出部を含めた全長は三三×二七・五メートル、高さ二・七メートルで、そのうち四隅には長さ五メートル、幅六メートル、高さ三〇センチメートルの張り出しをもつ。墳丘のほぼ中央部に長さ三・五メートル、幅一メートルの箱形木棺を納め、副葬品として碧玉製管玉(八〇個)、ガラス製の管玉(一〇個)、勾玉、木製の鞘・柄を残す長さ三四センチメートルの鉄剣が納められていた。
 四隅突出型墳丘墓を含む弥生時代の墳墓群には大きな時期差はみられず、土器型式も法仏期(弥生時代後期後葉)に比定されるという。小羽山の墳丘墓を造ったムラでは、墳丘墓の埋葬者は一般の人とは区別された上位の階層にあり、四隅突出型墳丘墓という山陰地方とのつながりがうかがえる特徴のある墓に埋められていることは、この埋葬者がこの階層のなかでも中心的な位置を占めていたと考えられよう。首長としての個人の力がこの時期に出てきた表われといえる。しかし、ほかの墳丘墓とは区別されつつも隔絶の度合いはあまり強くない。したがってこの地域の階層分化の成熟度はそれほど進展していなかったといえる。 
図15 小羽山30号墓墳丘の実測図

図15 小羽山30号墓墳丘の実測図

 王山古墳群(鯖江市)は、約四〇基前後で構成される弥生時代後期から古墳時代前期および中期初めにわたって築かれた墳墓群である。弥生時代のこの地方の様子を示すものとして貴重である。一号墳は一一×八・三メートル、高さ約二メートルの方形周溝墓で、墳丘の中央部に長さ三・五メートル、幅七〇センチメートル、深さ二五センチメートルの土壙を一基もつ。副葬品は検出されていない。墳丘のまわりに幅二メートル、深さ一メートルの断面U字形を描く溝を方形に巡らす。三号墳は一辺が一〇〜一一メートルの方形で、高さ七五センチメートルの墳丘をもち、周囲に幅一・八メートル、深さ一・三五メートルの緩やかなU字形の溝を巡らす。主体部は一基で、やや楕円形状の長方形型の土壙墓である。王山古墳群の弥生時代の墳墓をいくつか取り上げてみたが、副葬品や墳丘規模から、そこに在地性の強い首長層の階層分化をみることができるであろう。
 山ケ鼻古墳群(大野市)は、奥越地方に位置する唯一の前方後円墳一基と方墳・円墳および弥生時代の墳丘墓(方形台状墓)からなる二〇基の墳墓群である。四号墓(弥生時代後期中葉―方形台状墓)では一つの墳丘に二つの埋葬施設をもつ。五号墓(弥生時代後期後葉)は一五×一三メートル、高さ二・八メートルの墳丘に箱形木棺一基を納めている。埋葬時に供えられた大型の壷には、濃尾地方の影響を受けた彩文土器がみられるなど、この時期は多様な展開をみせていることがわかる。



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