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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    四 村と墳墓
      首長墓―原目山墳墓群―
 原目山古墳群は、土壙墓から方形周溝墓、方形台状墓、高塚の墳丘墓へという墓制の編年的な変化にはそのままあてはまらないが、社会の変化に対応した墓制の変遷を示す遺跡である。
図16 原目山墳墓群(1〜5号墓)の平面・立面図

図16 原目山墳墓群(1〜5号墓)の平面・立面図

 墓域を区画された三つの丘陵において、三号墓→二号墓→一号墓と大きな変遷をみる。さらに三号墓内では、土壙墓群→五つの土壙をもつ方形周溝墓→一つの土壙をもつ方形周溝墓という変遷もたどることができる。土壙の上からは供えられた土器が細かく砕かれて出土している。土壙のなかには副葬品はない。まれに小型の鉄剣を一つ副葬したものがみられるだけである。この時期には生活する場所と墓域とを区別し、意識的に墓域を造成したことは確かである。
 三号墓西側の二号墓は一辺が三〇メートル、高さ五メートルの方形台状墓で、丘陵尾根を二つの溝で掘り削り、北・南面を削って整形し、方形に形作っている。墳丘上には五つの土壙が設けられている。三号墓の土壙と比べると大規模で、ガラス玉・鉄製品・青銅製品などの副葬品も豊かであり、上位階層内での首長の独立性はより強くなってきている。
 一号墓は、自然丘陵を削って方形に整形しているだけでなく、土を盛り上げて墳丘を構築している点にその特徴がある。一辺二〇メートル、高さ四メートルの方形の墳丘の中央部に、一基の大型の土壙が設けられている。土壙には刀や碧玉製の管玉三二三個、ガラス玉七二八個が副葬されている。また、墳丘上からは多くの土器が砕かれて出土している。墓壙上部には、北陸的な特質でもある河原石や山石が標石としておかれている。この形態は、二号墓から継承され、三六・三七・三八号墓へと続き、他地域の墳墓群と比べて原目山墳墓群の特質ともなっている。一号墓の内容をみると、墳丘の構築法や副葬品などから首長の力が三号墓や二号墓よりもさらに強くなっており、階層分化の成熟の過程を連続してとらえることができる。この墳墓群は、弥生時代後期後葉から庄内式土器の時代(終末期)にかけての社会の変遷の様相を埋葬という形で具体的に示す事例として、全国的にも貴重である。
 稲作を基調とした弥生文化は、各地に浸透し、定着していった。しかし、その定着と発展は一様ではなく、各地域のまとまりや地域内の優劣の差によって、進んだ地域と遅れた地域とがしだいにできてきた。そして、先進的な西日本はしだいに古墳時代へと移行し、社会のしくみも変わっていった。越前・若狭は、より畿内的色彩を明確にした敦賀・若狭と、日本海を回廊としたつながりと伝統をもち続けて多様な展開を遂げてきた越前とに二分されるようになってくる。
 縄文的世界観を反映している「第二の道具」も、稲作・金属器などをともなった弥生文化にしだいに崩され、圧倒されて姿を消していく。この弥生時代は、社会のうちに差を生み出し、進んだ地域が遅れた地域をうまく整理統合し、クニとして成長していく胎動・揺籃の過程の時期である。そしてそれらのクニのうちから、中国や朝鮮半島などとのつながりを強くし、東アジアの国際的な舞台に直接に入り込むようなクニが現われてきた時代が、弥生時代といえるであろう。



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