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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    四 村と墳墓
      墳丘墓の出現
 中期の新しいころになると、長さ二〜三メートル、幅〇・八メートルの墓穴を掘り、そこに死者を葬る土壙墓といわれる形をとっている。墓壙には土器を一緒に納めるというのもこの時期の特徴である。子どもの墓は土器の底に穴をあけた小型の甕を用いた土器棺墓が主で、その蓋には土器片を使う。後期の古い段階では、土壙が環状や弧状に連なる環状土壙列群という形態をとる(写真27)。今後、検討を要するとはいえ、畿内の埋葬形態の方形周溝墓が円形化したものと思われる。また、このころには集落と墓域との分離が行われている。大人と子どもの墓には差があるが、大人の墓には優劣の差はあまりみられない。
写真27 糞置遺跡の環状土壙列群

写真27 糞置遺跡の環状土壙列群

 糞置遺跡の周辺には墳丘墓と想定される弥生時代後期の遺跡が存在する。後期の新しい段階になると、特定の人(首長)のための墓がつくられるようになってくる。しかし、太田山一号墓(福井市)のように、中期の中ごろに丘陵の尾根を削り出して墳丘を作り、そこに一つの箱形木棺を埋葬する墓壙をつくる地域もあった。土壙墓より上位に位置する階層の存在をそこにみることができる。
 一方、吉河遺跡(敦賀市)では中期初めには畿内から新しい墓の形がもち込まれている。墳丘墓の波及である。この墓の形は中国や朝鮮半島から九州北部や畿内にもたらされたものである。中期(二三基)から後期(二基)にかけての二五基の方形周溝墓が墓道・土壙墓・竪穴式住居・掘立柱建物などの遺構とともに検出され、また弥生土器やニワトリの土製品、カモシカの絵画土器なども出土し、居住域と墓域とが発掘された遺跡である。この遺跡の墳丘墓(方形周溝墓)は、一辺が四・四〜一二・五メートルの範囲の大きさで、ほぼ中央に墓壙を複数もつものと一つ設けるものとがあり、そのうち一基の墓壙では木棺が使用されている。
 吉河遺跡では、このような方形周溝墓をもつグループと特別な施設を造らないで土壙に埋葬されるグループの二つに大きく分けられている。この時期の敦賀では、墳丘を造り、そこに埋葬される身分の高い人や地位の高い人が社会のなかに現われてきた反映とみられる。この社会の首長の遺体は墳丘墓(方形周溝墓)に祀られることになってきたのである。しかし、九州北部の同じような様式の墓と違っている点は、副葬品が乏しいことである。この遺跡の方形周溝墓の造り方や副葬品が少ないことなどの埋葬の形態から、畿内の影響のもとで発展を遂げた社会状況が、この吉河遺跡を中心とする地域には出現していたことがわかる。
 また、稲作の定着とともに埋葬に対する意識も変わってきた。吉河遺跡では中期初めには居住域と墓域とが明確に区別されてくる。弥生時代中期の敦賀では、生活の場とそれを超えた場を意識してもつようになったことは事実で、同じ越前でも嶺北地方の糞置遺跡とでは発展の度合いに時期的な違いがうかがわれる。



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