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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    三 祭とくらし
      一日の生活、一年のくらし
 「倭人は四節を知らない。春の耕作からはじめ、秋の収穫をもって一年を区切っていた」(『魏略』)という。このことは、月の満ち欠けや太陽の位置を基準とした暦で一年を把握していたのではなく、季節のめぐりをその気配で感じていたともいえる。その気配の区切りで田起こしや田植え、畑の植えつけなどを行っていた。そして豊かな実りを神々に祈った。稲作の始まりの祭、成長の祭、収穫の祭など、祭の繰り返しが暦でもあったし、それらを通してムラのなかのつながりも強くなり、イネの成長がムラの仕事のサイクルを決めていくことになる。
 しかし、イネが伝えられたとしても、それが生活を維持するためのすべてではないことは、糞置遺跡(福井市)の遺物から想像できよう。木製の鍬や杵とともに、石斧や弓や石鏃、石皿や磨石などの石器が出土している。イネなどの栽培作物と自然から採集した食物とが、ともに当時の食卓にのぼっていたのである。糞置遺跡をみると、縄文時代の多種多様な食物のなかに新しくイネが食料として加わったという形であった。他県の調査例から、食料に占めるイネの割合は稲作が普及したとはいえ、それですべてをまかなうまでにはいかず、ほかの食物で補う必要があったようである。たとえば、稲作が早くから伝えられた菜畑遺跡(佐賀県唐津市)にみられる食物には、コメ・オオムギ・ソバ・アワ・アズキ・リョクトウなどの穀物と豆類、ゴボウ・マクワウリ・ヒョウタンおよびクルミ・シイ・イチイガシの木果類、そしてモモ・ヤマモモなど、そのほかに魚やウサギ・イノシシなどの動物もみられる。このように畑作も水稲と同様に広がりをみせてきたといえるし、イネを補うものとして畑の作物や、狩猟や採集による多様な食物がとられていた。しかし、イネという栽培品種への集中の度合いが大きくなればなるほど、それに生活を依存しなければならないようになる。その過程が弥生時代から今日までの歩みでもある。
図14 弥生人の生活サイクル

図14 弥生人の生活サイクル
(数字は総労働量を100としたとこの各労働量の割合%、推定)

 糞置遺跡・荒木遺跡・木田遺跡・浜島遺跡(福井市)からムラの立地の様子をのぞいてみよう。小河川の河谷盆地や小さな湿地に水田を作り、それを前にする洪積台地や舌状の台地の端に四〜五軒の家を作り、そのまわりに二重から三重の濠を巡らす。生活するムラの中央には、収穫された穀物を入れる高床式の倉庫をもつ。ムラの後ろには里山といわれる雑木林やアカマツ・クヌギ・ナラなどの二次林がみられる。竪穴式住居は地面を約二〇〜二五センチメートル掘りくぼめた一辺が四〜五メートルの四角や円形状をして、四〜六本の主柱をもち、それぞれに炉が設けられている。濠の内側は生活する場、その外側は土壙墓や周溝墓などの死者が葬られる場所というように区別される。大きなムラでは四〜五軒のまとまりがいくつか作られていた。



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