中国・朝鮮半島での長い歴史や高度な技術のもとに伝えられた青銅器は、本来の一次的機能を離れてしだいに精神的な二次的な面が強調されるように変わってくる。それは、銅鐸が「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」に変化するように、青銅器の武器(銅剣・銅鉾・銅戈)についても指摘できる。井ノ向二号鐸(高さ三六センチメートル)、井ノ向一号鐸(同五五・二センチメートル)や米ケ脇鐸(同三一センチメートル)などの「聞く銅鐸」の段階では六〇センチメートルまでくらいの大きさにとどまっている。しかし、「見る銅鐸」の段階になると、七〇〜一四〇センチメートルとその大きさを増す。より大きく輝いて見せるという機能が表に出てくるのである。「聞く銅鐸」と「見る銅鐸」との間には、社会的にもその機能的にも大きな変化があったといえよう(田中琢「『まつり』から『まつりごと』へ」『古代の日本』五)。
「聞く銅鐸」はどのように使われたのであろうか。銅鐸はその出土した数や位置からみて、いくつかの集落をまとめる中心的な集落の稲魂を納める穀倉に納められていた。「春に行われる稲魂の継承儀礼は、(中略)共同体の存亡のかかった不安と緊張にみちた重大な祭祀」であり、定期に、あるいは荒ぶる地霊が稲魂をおびやかす旱魃・長雨・強風などの緊急の事態に臨時にとりおこなわれるマツリにおいて悪霊を祓い、稲魂を励まし稲籾に結びとめる時に銅鐸が打ち鳴らされ、人びとは大地をたたき大きな声をあげながら踊る。それは、いくつかのムラを束ねる大きなまとまりとしての重要な祭の精神的な拠り所であった(春成秀爾「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』一)。
稲作のひろがりとともに、稲魂を守りムラに豊かな実りを約束する祭器として、大いなる畏怖の念をもって「聞く銅鐸」は迎えられた。畿内を中心として、「聞く銅鐸」という祭器を共有する大きなまとまりが、この時期に形づくられていたのである。銅鐸はたんに豊かな実りと生活の安定だけでなく、いくつかのムラを束ねた連合体(クニ)の特別な祭にも用いられた。
中期末から後期初めにかけては、この地域的なまとまりを脅かす危機が訪れる。倭国争乱である。この危機を克服しクニとしてのまとまりを維持するために、銅鐸はその境界の地に埋納された。「聞く銅鐸」の終焉である。 |