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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    三 祭とくらし
      銅鐸の用途
 銅鐸が弥生時代のイネの祭に使われた道具であることは先学の述べるところである。しかし、その用いられ方については、「使われていない時は日常の生活の場から離れた特別な地域の地中に埋められて保管され、必要な時に掘り出されて使われる」とする考えや、「穀物の霊の依り代で、いつもは穀倉に種籾とともに納められ、苗代に種を蒔く前の儀式の時や豊作を祈る時や成長期の危機の時になど穀倉から出されて使われた」(春成秀爾「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』一)などいくつかの考えがあり、まだ定まっていない。
 穀霊の依り代で、穀倉に種籾とともにいつも納められ、祭の時に取り出し、使用したとするこの説によれば、「穀霊の場合は地霊の働きに左右されるという面が少なくなかったから、両者は全体としては強大な地霊と虚弱な穀霊という優劣関係」にあり、カミとか霊魂は荒々しいものと穏やかで静かなものとがあり、両者は絶えず争っている。「したがって農耕祭祀とは人間が意図的に地霊・穀霊の和合を図ることであるが、実際には地霊の荒魂を和め穀霊を守護する」ことであり、それに用いられたのが銅鐸である。すなわち、弱い穀霊を強い地霊に和合させ(地霊の荒ぶる力を和らげ)、穀霊のすくすくと伸びる力を守るのが銅鐸の役目であるとした。また、銅鐸には鋸歯文・横帯文・袈裟襷文などが描かれているが、これらまわりを取り巻く文様は「包み込む」「結界」の世界を示しているとする。作物の成長を妨げる荒ぶる霊を和らげ、なだめ鎮めるという思いが弥生人の精神の基本であるとする。
 ところで、井ノ向一・二号鐸の銅鐸を有名にしているのは、たんに型式的に最古の段階や古い段階のものというだけでなく、鐸面に描かれた絵画の内容である。とくに、一号鐸は鐸面や舞(身と鈕をつなぐ平坦な部位)にまで絵画や文様を埋めつくしている。鐸面をキャンバスにして、イネをもたらした故郷を題材とした叙事詩を描いているともいえる内容で、絵画銅鐸の原作とされている(春成秀爾「銅鐸絵画の原作と改作」『国立歴史民俗博物館研究報告』三一)。この銅鐸の作られたところが畿内の工房(推定河内)であったとしても、そこが稲作を含めた複合体の新しい技術・文化を越前のこの地にもたらした中心的な存在であったことに変わりはない。
図12 井ノ向1号鐸の絵画

図12 井ノ向1号鐸の絵画
(上:舞部、下:鐸面)

 絵画のもつ内容は製作地では大きな意味をもっていたが、運び伝えられたところではそれほど意味をもたなかったとする意見もある。しかし、縄文時代晩期の「第二の道具」の「御物石器」「石冠」分布圏の最前線が越前―濃尾であったという事実は、その精神的風土を覆すにはイネという栽培植物だけでは不十分で、畿内文化の精神的な拠り所である銅鐸を用い、しかも叙事詩ともいえる絵画の内容をその土地の人達に絵解きすることによって、畿内との精神的なつながりと上下関係をもたせようとしたことを物語っている。
 



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