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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    三 祭とくらし
      ムラの祭と銅鐸
 祭に使われた祭器として、弥生時代を代表するのは銅鐸であろう。銅鐸は祭のシンボルとしてだけでなく、弥生文化を象徴するものであり、そして、大きな謎をもった遺物ともいえる。一つはその使用された時期が弥生時代という一つの区切りに限定されていること、もう一つはその配られ方や鋳造に携わった工人の掌握に政治的な動きがみられるということである。
 銅鐸の出土記録は、平安時代末に著わされた『扶桑略記』天智天皇七年(六六八)正月十七日条の「近江国の崇福寺という寺を建立する時の地ならし工事中に、高さ五尺五寸の奇異な形のものが掘り出された」という記事が初見である。また県内での出土記録は、『続日本後紀』承和九年(八四二)六月辛未条の「若狭国から銅器がたてまつられた。その形は鐘にとてもよく似ており、土の中から掘り出された」(編四一五)という記事が初見である。 銅鐸の広がりは畿内を中心として、東は福井・岐阜・愛知・静岡・長野県、西は島根・広島・ 祭に使われた祭器として、弥生時代を代表するのは銅鐸であろう。銅鐸は祭のシンボルとしてだけでなく、弥生文化を象徴するものであり、そして、大きな謎をもった遺物ともいえる。一つはその使用された時期が弥生時代という一つの区切りに限定されていること、もう一つはその配られ方や鋳造に携わった工人の掌握に政治的な動きがみられるということである。
 銅鐸の出土記録は、平安時代末に著わされた『扶桑略記』天智天皇七年(六六八)正月十七日条の「近江国の崇福寺という寺を建立する時の地ならし工事中に、高さ五尺五寸の奇異な形のものが掘り出された」という記事が初見である。また県内での出土記録は、『続日本後紀』承和九年(八四二)六月辛未条の「若狭国から銅器がたてまつられた。その形は鐘にとてもよく似ており、土の中から掘り出された」(編四一五)という記事が初見である。
 銅鐸の広がりは畿内を中心として、東は福井・岐阜・愛知・静岡・長野県、西は島根・広島・香川・高知県という分布圏をもつ。銅鐸を考える時福井県が重要な位置を占めるのは、日本海側の東限という分布上の特徴とともに最古の型式の銅鐸が出土しているからである。銅鐸の出土地は全国で二八〇余か所におよび、数も約四〇〇口を数える。県内では越前で三か所(五口)、若狭二か所(二口)から出土している。また下屋敷遺跡(三国町)からは未成品ではあるが、銅鐸分布の北限にあたるこの地から銅鐸の鋳型が出土している。
 「釣り下げて鳴らす」という鈕の機能に着眼し、その変化に重きをおいて型式分類した考察をもとに(佐原眞「銅鐸の鋳造」『世界考古学大系』二)、県内出土の銅鐸を分類し位置づけたのが表4である。

表4 県内出土の銅鐸一覧

表4 県内出土の銅鐸一覧



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