目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    二 生産と交流
      金属器・玉にみられる交流
 弥生時代、石器・土器・木器など日常生活に必要なものがいろいろと移動し、それぞれの地域にもたらされた。
 銅鐸については、三項で詳しく述べるが、ここではとくに交流という面からそれを取り挙げてみたい。銅鐸の鋳造などに代表される青銅原料の入手にあたっても、限られた時に限られたルートでもたらされていることが近年の自然科学の研究成果から指摘されている。下屋敷遺跡出土の銅鐸の鋳型は、畿内の工人が一時的に派遣されたものか、越前における一つの拠点として工人が移り住んだものかは別にして、その技術者の移動に関しては畿内からの政治的な背景が感じられる。
 最古の銅鐸は、朝鮮半島からの技術者の移住によって朝鮮半島の原料で作られた(和田晴吾「金属器の生産と流通」『岩波講座 日本考古学』三)。畿内およびその周辺で製作された銅鐸は、畿内のみでなく東は越前・三河などの広い地域へ運ばれていった。最古段階の銅鐸(菱環鈕式鐸=春江町井ノ向二号鐸)、古段階の銅鐸(外縁鈕式鐸=井ノ向一号鐸)は河内でつくられたと考えられている(春成秀爾「銅鐸の製作工人」『考古学研究』三九―二)。古段階の銅鐸や次の中段階の銅鐸(平鈕式鐸)の時期になると製作地も広がり、河内・摂津のほかに播磨や山城でも製作された。この時期は生産も最盛期で、県内の井ノ向一号鐸、米ケ脇鐸や向山鐸などをはじめ、現在日本で出土している銅鐸の約三割がこの時期に製作・配布された。
 弥生時代後期(X期)になると銅鐸も「見る銅鐸」の段階に入る。農耕祭祀から政治的なまつりごとの儀器として、その性格を変えてくる。「見る銅鐸」は、近畿産の初めの銅鐸と三遠式といわれる東海産の初めの銅鐸が、若狭・越前からそれぞれ一口出土している。県内では、それから後の型式の銅鐸はみられなくなり、県内の銅鐸出土に一つの区切りをみせる。こののち、銅鐸は畿内中心部の有力な首長のもとで製作される。原料の入手も一元的になってくるようである。配布も近畿地方縁辺部になり、その地域も限られてくる。そこに、畿内勢力の政治的な流通意図がみられるのである。
 銅鐸が畿内勢力の政治的な意図のもとに配布された遺物とすると、玉もその意図のもとに生産された遺物である。吉河遺跡・下屋敷遺跡や小羽山三〇号墓(清水町)に隣接する土壙墓から出土した翡翠の勾玉の石材は、新潟県糸魚川の姫川産のものであるという。これらの原石が糸魚川から運ばれ、上記の遺跡やそのほかの玉作遺跡で製作されたようである。縄文時代は石の原産地近くで製作された玉も、この時代になると原石をそれぞれの玉作工房にもち込んで作るという発展を遂げる。
 下屋敷遺跡は銅鐸の鋳型が出土し、その分布圏の東限での発見という大きな話題をよんだ遺跡であるが、その一方で玉作遺跡としても大きな位置を占めることが知られている。管玉の製作技術には朝鮮半島の人の影響がみられ、下屋敷遺跡の管玉の原石は竹田川上流か大聖寺川上流からもち込まれたと考えられている。また、翡翠の原石と玉鋸の道具の石材(紅簾片岩―和歌山県紀ノ川上流産)も他地域からもたらされたものであり、玉作技術や材料には、他地域との交流を物語る資料が多くみられる。
図11 井ノ向1号鐸の拓影

図11 井ノ向1号鐸の拓影

 そのほかに、交流を物語る特色ある遺物として、小和田遺跡(高浜町)の石剣・石戈や西山公園遺跡(鯖江市)の有鈎銅釧も九州の鉄剣・鉄戈や貝釧・銅釧の影響のもとにつくられたものである。これらは弥生時代前期に九州北部で流行したものが、日本海沿いに伝えられ、若狭・越前にそれぞれもたらされたものである。下屋敷遺跡の報告書にも述べられているように、モノを運ぶ重要な役割を果たしていたのは海や河川などであった。井ノ向一号鐸に描かれているような船(準構造船、図11・52)や丸木船がその用を果たした。時期によって影響を受ける地域は異なるが、他地域との交流がうかがえる。近距離を移動するモノ、遠距離を動くモノ、そして海を越えてダイナミックに動くモノなど、複合したつながりのなかで弥生時代の人達は生活していたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ