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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    二 生産と交流
      土器をめぐる交流
 中国や朝鮮半島との交わりのなかに大きな展開をみせ、日本独自の文化を形成していったのがこの時代であった。各地域間の交流は縄文時代からみられたが、とくに弥生時代では自分たちの生活を維持するための生産と流通のほか、新たに社会的・政治的関係を維持するための交流という二つの面がある。
 生活のためのモノの移動交流を代表するのは土器である。下屋敷遺跡の中期の土器には、東海地方や山陽方面から直接運び込まれていたり(搬入土器)、畿内の影響のもとで作られた土器もみられる。
 丸山河床遺跡(小浜市)にみられる土器は、県内で一番古い弥生時代の土器であるが、この土器がどのルートから伝えられたかが問題である。現在のところ、大きく二つ考えられている。一つは丹後から日本海沿いに伝えられたとする考え、もう一つは瀬戸内から近畿地方を通り、若狭にもたらされたとするものである。
写真26 糞置遺跡出土の搬入土器

写真26 糞置遺跡出土の搬入土器

 しかし、土器の流れはたんにモノの動きだけでなく、女性の動きも一部そこに反映されている。土器作りは諸民族の例などから女性の手によることが知られ、婚姻関係の成立が土器の動きをつくる要因の一つともなっている。
 糞置遺跡の搬入土器(写真26、墓壙からの出土で中期の古い段階に資料が集中)には、東海地方や近江・丹後地方の櫛描文系や、北陸・中部高地山岳や駿河地方の条痕文系や沈線文系が認められ、交流の広さを物語っている。また前期の土器には少量の遠賀川式(新段階)の甕・壷・鉢形土器がみられる。中期になると縄文的色彩を残しているものの、畿内・近江地方の影響下のものや東海地方とのつながりを示すもの、北陸地方独自のものなど多様な展開を示している。社会的・政治的な交流の多様さとともに、生活の維持のために動いている人びとをそこにみることができる。また、吉河遺跡出土の土器には、伊勢湾沿岸地方や中部高地地方から運ばれてきた土器(搬入土器)や近江・畿内地方の影響のもとで作られた土器が混じる。
 搬入土器の場合は、その土器に直接モノをいれて運ばれてきた場合と土器そのものがモノとして運ばれた場合があるが、ある地域の影響のもとで製作された土器の場合は、その地域の文化の複合体の表われとして作られたと考えられる。新しい技術や生産様式の伝播によって、変化を受け入れざるをえなかった結果を示している。口背湖遺跡(美浜町)にみられる近江・河内系の土器も、当時それらの地域と結びつきがあったことを示している。



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