弥生時代を特徴づけるものの一つに、青銅器の生産があげられる。青銅器を生産する技術者が存在していたということだけでなく、それらの専業集団をかかえるだけの食料生産をいつも可能にしておくだけのレベルに達していた社会が存在したことも重要であろう。日本における社会的分業の発生をこの時に求めることができよう。従来は北九州や畿内を中心に生産され、その製品を各地に配布したと考えられてきたが、青銅器の鋳造を示す鋳型やその生産時に使用されるフイゴの羽口などが、島根県や下屋敷遺跡(三国町)から発見され、北九州や畿内にその出土数が集中するとはいえ、そのほかの地域にもある程度の広がりをみせていたことがわかる。
銅鐸分布圏の日本海側の東限にあたるとされてきた三国町からその鋳型が出土したことは、その生産と使われ方に大きな話題を投げかけた。この鋳型から実際に銅鐸が鋳造されたとはいえないが、専門工人がこの近くで鋳型製作にあたっていたことは十分考えられる。この鋳型は、鐸身部だけ彫り込まれ、鰭部や鈕、文様などの部分の彫り込みは中止されている。凝灰質砂岩製で、高さ約三一センチメートル、幅が上部で約一八センチメートル、下部で約二三センチメートルである。この鋳型から造りだされる銅鐸は、鐸身部高さが二〇・七センチメートル、裾幅長径約一二センチメートル、短径約一〇センチメートル、舞部長径約九・二センチメートル、短径約八センチメートルと復原できる小型の銅鐸で、型式的には最古の段階に入る。この近くから出土している三国町米ケ脇鐸や春江町井ノ向鐸と比べてもやや小ぶりである。しかし、鋳型が北九州や畿内以外からも発見されたとはいえ、依然として鋳型の出土例のほとんどが、九州北部や畿内で占められていることにかわりはない。 |