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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    二 生産と交流
      青銅器の生産
 弥生時代を特徴づけるものの一つに、青銅器の生産があげられる。青銅器を生産する技術者が存在していたということだけでなく、それらの専業集団をかかえるだけの食料生産をいつも可能にしておくだけのレベルに達していた社会が存在したことも重要であろう。日本における社会的分業の発生をこの時に求めることができよう。従来は北九州や畿内を中心に生産され、その製品を各地に配布したと考えられてきたが、青銅器の鋳造を示す鋳型やその生産時に使用されるフイゴの羽口などが、島根県や下屋敷遺跡(三国町)から発見され、北九州や畿内にその出土数が集中するとはいえ、そのほかの地域にもある程度の広がりをみせていたことがわかる。
 銅鐸分布圏の日本海側の東限にあたるとされてきた三国町からその鋳型が出土したことは、その生産と使われ方に大きな話題を投げかけた。この鋳型から実際に銅鐸が鋳造されたとはいえないが、専門工人がこの近くで鋳型製作にあたっていたことは十分考えられる。この鋳型は、鐸身部だけ彫り込まれ、鰭部や鈕、文様などの部分の彫り込みは中止されている。凝灰質砂岩製で、高さ約三一センチメートル、幅が上部で約一八センチメートル、下部で約二三センチメートルである。この鋳型から造りだされる銅鐸は、鐸身部高さが二〇・七センチメートル、裾幅長径約一二センチメートル、短径約一〇センチメートル、舞部長径約九・二センチメートル、短径約八センチメートルと復原できる小型の銅鐸で、型式的には最古の段階に入る。この近くから出土している三国町米ケ脇鐸や春江町井ノ向鐸と比べてもやや小ぶりである。しかし、鋳型が北九州や畿内以外からも発見されたとはいえ、依然として鋳型の出土例のほとんどが、九州北部や畿内で占められていることにかわりはない。
図9 下屋敷遺跡出土銅鐸鋳型の実測図

図9 下屋敷遺跡出土銅鐸鋳型の実測図

 金属器の鋳造にあたる技術者は、年中その生産にあたる常勤専門技術者・(fulltime-specialist)であったといわれている。つまり畿内の特定の首長のもとで、その熟練した技術を常に提供することがほかの工人と違っていたのである。下屋敷遺跡の青銅器工房は、一時的に設けられたもの(「周辺的工房」)か一つの拠点として設けられたもの(「中心的工房」)のどちらかであろうが(和田晴吾「金属器の生産と流通」『岩波講座 日本考古学』三)、その生産にあたっては畿内の首長の意向が反映されていると考えられる。一定期間だけ玉やガラス玉、石製品などの生産に従事する定時専門技術者(parttime-specialist)と異なり、そこに青銅器生産と製品の配布にみる政治的な背景がうかがわれる。
 そのほかに銅鏃の鋳造があげられる。製品出土地の近くで鋳型はみられないが、近くで生産されていることはほかの青銅器の場合と同じである。吉河遺跡、木田遺跡・原目山墳墓群(福井市)から出土例をみるが、吉河遺跡の銅鏃をみると「湯まわりが悪く、(中略)粘土のような可塑性を有する材料を使用し、それをヘラで茎部を形作って銅鏃の鋳型をつくり、型抜きした鋳型を用いて鋳造した感」(福井県埋文センター『吉河遺跡発掘調査概報』)があるとされている。小型の青銅製品を作る様子を復原することができよう。



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