目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    一 米作りのはじまりとひろがり
      福井県の稲作文化
 多様な展開をみせている稲作ではあるが、福井県ではどのような広がりをみせたのであろうか。花粉分析と稲作にともなう遺物の両面からみてみよう。
 前者の事例の一つとして、「縄文後期・晩期の低湿地遺跡と環境復元」を目的とした浜島遺跡(福井市)の調査があげられる。この調査で、縄文時代晩期の層からイネ花粉が検出されている。この遺跡のデータをもとにすれば、福井県においても、九州北部と時間的な差はなくイネは伝えられたといえるが、トレンチ断面による層序分析の調査であり、遺構・土器様式などの対応資料が乏しいのが残念である。しかし「遺跡立地に地形選択という要素が加わっているという判断」(市原寿文「考古学的立地論」『岩波講座 日本考古学』二)は重要な指摘であり、弥生時代農耕ではほかの要素が加わってくるとしても、縄文時代後・晩期の低湿地性遺跡への進出と稲作は深く関係していることをうかがわせる。海退過程において進行しつつあった沖積地の形成が、稲作可能な地として大きく作用しているといえる。
 後者の事例として、河和田遺跡(坂井町)出土と伝えられる磨製石鏃・抉入片刃石斧の石製遺物があげられる。朝鮮半島からイネの栽培技術とともにもたらされたものであろうが、表採資料という制限はあるものの、福井平野における稲作を考えるうえで重要な資料である。また、この遺跡から出土した中期初めの無頚壷片土器の口縁部にイネ籾の圧痕がみられる。その粒形から判断すると、短粒のジャポニカ型と考えられている。
 さらに後者の事例として、やはり土器(遠賀川式土器)をひとつの指標として考えていかねばならない。県内で遠賀川式土器の出土が伝えられていたのは、一九八〇年代までは若狭地方の宮留遺跡(大飯町)ほか三遺跡からの例だけであった。いずれも若狭湾に突き出た大島半島とそれに対峙する内外海半島に存在する。昭和三十三年〜四十五年の調査時に発見されたもので、甕形土器のみが出土し、口縁部にそれぞれ刻みを施し、口縁部下に二〜七条のヘラ描き沈線を施している。土器編年では、第T様式(新)段階に属している。資料的に乏しく、食料としてイネがもち込まれただけなのか、イネとともに稲作の技術体系などももち込まれたのかは判断できなかった。
写真25 丸山河床遺跡出土の弥生土器

写真25 丸山河床遺跡出土の弥生土器

 しかし、平成二年十二月、小浜市北川河床(丸山河床遺跡)から、前期中ごろから終わりごろの甕形土器や壷形土器などの遠賀川式土器が河川工事中に偶然多量に発見された(写真25)。先の四遺跡の出土土器と比べると器種の組み合わせもつかむことができ、イネの受容が前期中ごろから終わりごろ(第T様式中段階〜新段階)に始まったことを示している。遠賀川式土器の出土は、そのほかに田名遺跡・五十八遺跡(三方町)でも確認されており、このことから弥生時代前期後半ごろには、若狭地方にはイネが確実に定着したことがわかる。
 これら若狭地方への遠賀川式土器の伝わり方については、1日本海沿岸に沿って丹後から若狭へ、2瀬戸内から兵庫県加古川をさかのぼり京都府由良川沿いに下ってさらに若狭へ、3畿内から琵琶湖岸沿いにきて時計回りの逆方向で若狭へ、というように三つのコースが考えられるが、その判断にはこれからの資料の増加が待たれる。
 越前においては、糞置遺跡(福井市)の土器のなかに遠賀川式土器と考えられる甕形土器がみられる。これらは、北陸地方の縄文時代晩期下野式の影響が強い土器のなかに混じってみられるのが特徴で、越前におけるイネ伝来時の様相をうかがわせる。奥越地方ではこれも縄文時代晩期の佐開遺跡(大野市)の土器片のなかに、縄文土器とは異質の土器片が少しみられる。イネを伝えた土器かどうかは検討を要するが、日本海から九頭竜・真名川をさかのぼるルートではなく、尾張―美濃―大野へのルートが考えられようが、これも資料の増加を待ちたい。
 以上限られた資料から、福井県域へイネが伝えられた時期を考えてみたが、稲作の受容にあたっては、1朝鮮半島から直接渡来した人びとによって、その技術体系がもたらされる場合、2北九州・丹後や畿内で稲作を受容した弥生人が、日本海沿岸ルート、畿内・近江ルートによってもたらす場合、3縄文時代人が、近隣のムラから稲作の技術体系を受け入れ、自分たちの社会に取り入れる場合、というような三つの場合があることが考えられよう。
 このように、原日本風景を形成した基本要因ともいえる稲作は、質の高い形で中国および朝鮮半島から伝えられたとはいえ、それを見事なまでに消化し、日本の風土に溶けこませた文化を作りあげていったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ