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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    一 米作りのはじまりとひろがり
      イネの故郷と伝来
 イネをはじめて栽培し、食料としたところはどこだろうか。私たちが今栽培しているイネは・「Oriza Sativa」といわれ、野生稲の一種から成立したものである。アジアの栽培イネの起源地については、農学の渡部忠世を中心に研究が進められ、インド東北部のアッサムとそれに隣する中国雲南の地に求められている。この起源地は「アッサム・雲南センター」とよばれて、ここでは水陸未分化稲(畑地にも湿地にも十分適応可能な原始的な種類)が栽培されている(農学上の起源地)。
 一方、中国長江中・下流域に求める考えもある(考古学上の起源地)。雑穀栽培型の稲作(イネもアワ・キビ・ヒエ・ハトムギなどの雑穀の一種として栽培されていた)から、水稲栽培型の稲作に発展してくる(佐々木高明「稲作文化の伝来と展開」『稲のアジア史』三)。ここではインディカ型とジャポニカ型の両方が栽培されていたが、自然淘汰や人の手によって選別されて、しだいにジャポニカ型だけに限られ、BC五〇〇〇〜三〇〇〇年ごろに山東半島まで稲作文化がおよんだようである。
 日本へのイネの伝来ルートは三つが考えられている(図6)。
図6 日本への稲の伝播

図6 日本への稲の伝播

@長江下流域から淮河流域を経て、山東半島から対岸の遼東半島・朝鮮半島西南部を経て九州北部に至る。
A長江下流域から直接九州北部に至る。
B中国華南・台湾から琉球諸島を経て南九州に達する(柳田国男の提唱した「海上の道」である。このルートは考古学的に成立困難といわれ、民俗学的立場からのルートとみなされてきた。しかし栽培植物の農学的調査によって、アワやサトイモなどを栽培する畑作文化とともにジャワ島に多いジャバニカ型のイネがこのルートで伝えられていることが明らかとなった)。
 これらいろいろなルートが考えられているのは、日本は東アジア最後の稲作受け入れ地であることが要因であろう。ルートについては、「唯一の経路によって稲が伝わったとすることはむしろ不自然であり」、右の三つのルートは「数あるうちの代表的な渡来経路にすぎなかった」(渡部忠世「アジアの視野からみた日本稲作」『稲のアジア史』三)と考えるべきであろう。
 弥生文化は大きく三つの要素から成立している(佐原前掲論文)。すなわち、1大陸伝来の文化、2縄文文化から受け継いだもの、3弥生時代独自で生み出されたもの、である。
 縄文文化から受け継いだものとしては、縄文時代の「第一の道具」といわれる石鏃や石斧などの用具やそれを製作する技術など、日常生活の営みにかかわるものである。しかし「第二の道具」といわれている精神的なもの、すなわち非日常的なものは弥生時代へは継承されることはなく、新しい文化要素に転換された。
 つまり、縄文的日常生活に、外来の稲作技術と金属器(青銅器・鉄器)、祭の道具などまったく新しい社会組織などに象徴される諸要素がもち込まれたのである。このような複合的な文化構造が弥生時代の文化であり、日本型稲作として特色づけられるといえよう。早期の段階で九州北部を中心として、瀬戸内から畿内にまで、日本海沿岸でも島根県までこの新しい文化が確認されている。
 次の前期の段階になると、西日本全体に広がる。この時期の広がりを考える時、地域によって多少の差異はあるものの、「遠賀川式土器」といわれている土器型式がやはり一つの目安になる。この土器の分布は、瀬戸内沿岸の平野部から大阪湾沿岸、大和・山城の内陸部、さらに伊勢湾沿岸、日本海沿岸部では出雲地方までといわれている。前期の中ごろから終わりごろには、丹後から若狭および越前の一部にまでおよんでいる。これらの地域では稲作が点から線、線から面へと確実に進行していったことがうかがえる。また、前期の中ごろには静岡・神奈川県から福島県、また日本海ルートにのって本州の北端青森県まで伝わったことも知られている。



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