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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    一 米作りのはじまりとひろがり
      弥生時代の区分と特色
 縄文時代は日常生活に用いられてきた石斧・石鏃・石皿や土器などの「第一の道具」も重要な役割をもっていたが、一方、「第二の道具」といわれる土偶・石棒・石剣・石冠・御物石器など、儀式や呪術にかかわる多くの種類の遺物が多量に出土していることは、祈りと願いやタブーがさらに大きな役割を占めてきたことを物語っている(小林達雄「縄文土器の世界」『日本原始美術大系』)。
 縄文時代晩期になると、亀ケ岡式土器に代表される東日本と、深鉢の口の部分に突帯を巡らす突帯文土器(縄文時代晩期終末期―夜臼式土器)の西日本とに大きく分けられてくる。突帯文土器文化の境にあたる東海地方から飛騨・越前・加賀にかけての地域は、「第二の道具」といわれる石冠・御物石器などが多量に出土するが、その世界も終わりをむかえ、農耕を中心とする新しい弥生文化がしだいに東へと進んでくる。その新しい文化の流れを示すものの一つに弥生土器がある。初めの弥生土器は遠賀川式土器と一般にいわれているように、農耕の始まりと歩みを同じくして出現した土器といわれてきた。稲作を最初に受け入れた北九州では突帯文土器から遠賀川式土器(弥生時代前期―板付T式土器)へと移り変わり、弥生文化は、「日本において弥生式土器が使用された時代の文化」(小林行雄『図解考古学辞典』)といわれてきた。
図5 菜畑遺跡縄文時代晩期後半の水田跡

図5 菜畑遺跡縄文時代晩期後半の水田跡

 しかし、その弥生時代の始まりに大きな見直しが迫られている。昭和五十四年(一九七九)の板付遺跡(福岡市)、昭和五十五年の菜畑遺跡(佐賀県唐津市)・曲り田遺跡(福岡県二丈町)などの発掘調査によって、今まで突帯文土器の出ていた層から水田の跡と農耕具、大陸から伝えられた磨製石斧などが発見されたからである。これによって、遠賀川式土器イコール稲作の開始という弥生時代の始まりについての認識を変えていかざるをえなくなってきた。今までは弥生時代を前・中・後期の三つとか、またT〜X期の五つに区分して考えてきた。この区分に、弥生時代の始まりをさかのぼらせて縄文時代晩期・終末期をこのなかに入れるか、それとも新たに一つの時期を創って弥生時代の幅を広げるかということになり、結果としては、弥生前期の前に早期、T期の前に先T期を考えるようになってきた。
 そのため、弥生時代の定義も土器の型式区分を基本とするこれまでの視点によらずに、「大陸との著明な交渉を持ち、農業を一般化した期間である」とし、「この時代に入ってはじめて食料が生産されるに至ったのである」(山内清男「日本遠古の文化」『どるめん』)との考えをもとに、「日本で食料生産の基盤となる生活が開始された時代」(佐原眞「農業の開始と階級社会の形成」『岩波講座日本歴史』一)とし、時間的にはBC三〇〇年ごろからAD三〇〇年ごろまでの約六〇〇年間を、歴史的には「日本列島で稲作米食が始まってから前方後円墳が出現するまで」(佐原眞「弥生土器入門」『弥生土器』一)の時代とするようになってきた。
 しかし、弥生時代の特色は、1日本における稲作農耕の開始期にあたる、2日本における金属器使用の開始期にあたる、3日本が朝鮮ないし中国と交渉をもちはじめた時期にあたる、ということにかわりはない。
 この弥生文化は南北に長い列島にあって、気候・植生などの違いに応じて多様に展開・発展を遂げた縄文文化から自生したものではなく、中国や朝鮮半島から完成された文化としてもたらされ、形づくられてきたというところにもう一つの特色がある。



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