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 第一章 原始時代の社会と文化
   第二節 米作りのはじまり
    一 米作りのはじまりとひろがり
      弥生時代とは
 明治十七年(一八八四)三月、東京市本郷区弥生町(東京都文京区根津)向ケ丘貝塚から一個の壷形土器が有坂蔵によって発見されたことによって、日本文化のもう一つの基層をなすといわれている弥生時代の研究が始まった。しかし、学界で発表されたのは数年を経てのことで(坪井正五郎「帝国大学の隣地に貝塚の跟跡有り」『東洋学芸雑誌』六―九一)、弥生土器という名称が活字になったのは「右に述べましたるこれらの土器は貝塚土器とは一種異なるものにして、初めて弥生ケ岡より発見せられたゆえに人類学教室諸氏が弥生式と名づけられたるもの」(蒔田鎗次郎「弥生式土器(貝塚式土器に似て薄手のもの)発見に付て」『東京人類学雑誌』一一―一二二)とあるのが最初である。
図4 最初に発見された弥生土器

図4 最初に発見された弥生土器

 弥生文化の研究は、弥生土器が大森貝塚などから出土する貝塚土器(縄文土器)とは、その製作・装飾などを異にするという指摘から始まった。貝塚土器(縄文土器)・祝部土器(土師器)・朝鮮土器(須恵器)から区別するための研究の過程が、弥生文化の内容を少しずつ明らかにしてきた。そしてこの研究の過程では、人種論、時期、文化の発達段階などが論じられ、わが国における稲作が始められた初期農業文化の時代として性格づけられたのである。 
 縄文時代の生業は狩猟・漁撈と植物食料の採集を経済的基盤としている。つまり、自然のサイクルにあわせて食料を計画的に獲得し、生活の安定をえられるようにした時代ともいえる。南北に長い日本列島の自然環境のもとで、山の幸・海の幸を採集し、食料獲得のために道具を工夫し、技術の改良を図っている。このように、自然に恵まれ、長い間独自の発展を遂げてきた縄文時代ではあるが、「後期以降それ自身の生産力の限界によって発展性を失い、停滞的な社会をいとなんでいた」(坪井清足「縄文文化論」『岩波講座 日本歴史』一)とされている。これに比べて、弥生文化はコメという特定の作物を中心としてその収量の増大に努めるという、縄文の食料獲得とは対立する形をとるのである。農作業の集中と仕事量の確保が、コメという食料の増量に結びつくのである。人が大地をコントロールすることによって、生産と生活の安定をはかることができる。日本的な集約農業の始まりともいえようか。



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