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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
    四 古福井人の生活
      漆について
 縄文時代の古い段階に漆があったことが知られるようになったのは最近のことである。その象徴的な遺物は、昭和五十年に出土した赤色漆塗りの櫛である(写真24)。九本の歯をもち、あたかも動物の角をデザイン化したような飾り櫛で、縄文時代前期の逸品として注目を集めた。もちろん日本最古の櫛である。その材質は、ヤブツバキと鑑定され、きわめて緻密でかたい木が使用されていることがわかった。この櫛の全面に赤い塗料が塗布されており、当初の分析ではベンガラが使用されているとされたが、そののち「本漆」が使用されていることが科学的分析によって確認された。その結果、当初、鳥浜貝塚の櫛については「赤漆の櫛」とよんでいたが、「赤漆」は鎌倉時代の漆工の用語なので「赤色漆」と称するようになった。さらに、一連の調査で黒漆の存在もわかり、当時二種類の色が使用された実態も判明するにいたった(荒川博和の鑑定による)。
写真24 赤色漆塗りの櫛

写真24 赤色漆塗りの櫛

 従来、漆塗りの技術は大陸から伝播したとなかば信じられてきたようであるが、鳥浜貝塚とよく比較される中国浙江省の河姆渡遺跡では、赤色漆の木製の椀が出土している。その年代については、放射性炭素による年代測定で、今から約六二〇〇年前とされている。浙江省は福井県と友好関係にあり、漆の古さにおいても、その技術についても、歴史的に深いつながりがあったことになる。これまでの諸先学の研究成果でも、かならずしも中国大陸が漆文化の発祥の地とは断定し難いようである。中国河姆渡遺跡の漆と鳥浜貝塚のそれとは、同じような古さであり、さらに両者の技術の内容を比較しても、種類といい赤色漆・黒漆の使用といい、鳥浜貝塚の方が多彩で内容の濃い漆文化があったといえるからである。話は大きくなるが、漆文化をはじめ栽培植物の問題などから、縄文文化も東アジアのなかでお互いの文化交流の足跡がみえてくるようである。
 そののち、縄文時代前期だけでも、漆文化の存在は、押出遺跡、南太閤山T遺跡(富山県小杉町)などで確認されている。押出遺跡では漆の原液の残存する土器なども出土しており、南太閤山T遺跡では赤色漆を塗布したヒョウタン果皮の破片が出土している。
 鳥浜貝塚の漆製品には、前述の櫛のほかに楕円形を呈する木鉢、丸木弓、盆状容器類それに用途不明の木製品などがあり、珍しい遺物としては「赤い糸」とよぶ細い数ミリメートルの糸に赤色漆を塗った断片がある。そのうえ相当量の漆塗り土器がある。丸木弓の製品には二種類ある。桜の皮を巻いた弓にべったりと赤色漆を塗ったものと弓の全面に赤色漆を塗ったものである。弓の多くは、このような形状のものではないので、やはり赤色漆塗り弓は、特別な用途に用いられたことは容易に指摘できる。つまり、ハレのための用途があったものと推察する。さらに漆製品に描かれている文様についても、多彩である。とくに三角形・円形・同心円状・車輪状の文様などを赤と黒の漆で描き分けており、縄文土器より絵画的な文様である。それに筆の存在を思わせるような漆製品すらみられる。
 エゴマの存在は漆文化との関連でも重要であるという。『延喜式』内匠寮には、漆器製作の際に漆の樹液とエゴマ油を混合するという記載があり、その混ぜ合わせる割合まで規定されている。漆の木が生えていてもそれだけで漆製品が作り出されるわけではなく、漆工技術の存在が問題のようである(森浩一の教示による)。おそらく、鳥浜の地で樹液の採取から精製・塗りまでがなされたのであろう。
 福井県は若狭塗・河和田塗など、全国的にも漆工の伝統産業が盛んな地として有名であるが、漆の樹液があるから単純に栄えるのではなく、縄文前期からの長年培われた漆の文化がそこにあったからといえるのではないだろうか。良い漆製品は、湿度と密接な関係があるようで、じめじめした梅雨の時期が漆職人には歓迎されている。こういったことからも、漆文化六〇〇〇年の伝統は注目されよう。



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