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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
    四 古福井人の生活
      種まく人
 鳥浜貝塚(三方町)の昭和四十七年(一九七二)の調査で、五五〇〇年前の層序よりか
なり大きなヒョウタンの果皮が出土しており、当時撮影したカラースライドに鮮明に記録されている。この時は水漬けにして保存しておいたが、三年後の昭和五十年にクローズアップされることになる。植物学の研究者が新たに調査に加わった結果、ヒョウタンの栽培植物としての存在が注目されたのである。つまり、ヒョウタンは西アフリカ原産の栽培植物であり、大変な発見であることを教えられたからである。そののち、リョクトウも鳥浜貝塚に存在したことが明らかにされた。小さな豆そしてヒョウタンの種子の検出は、遺物包含層の大量の土を研究室で水洗選別するという地道な努力のたまものであった。昭和五十五年の調査からは、栽培植物の問題はさらに飛躍的な成果があげられた。鳥浜貝塚の遺物包含層の土は二〇〇グラムの単位で膨大な量が採集され、個々の種子については、走査電子顕微鏡で細胞段階の研究が進められ、その成果としては、シソ・エゴマやアブラナ科のもの、カジノキ・ゴボウなどの大発見が相次いだ。さらに、五五〇〇年前の大麻の種子も明らかになった。興味深い事実はこれら多くの種子は南から渡来したものであるが、ゴボウ・アサについては北からの渡来の可能性が指摘されたことである(調査に新たに加わった植物学者は、昭和五十年から西田正規・藤下典之、昭和五十五年からは笠原安夫の各氏である)。
 これまで、縄文人は狩猟・漁撈・採集といった、自然に完全に頼りきった生活であるとされてきた。ただし、縄文時代中期の農耕論、クリの木の栽培論など諸先学の学説がなかったわけではない。しかし、多くの研究者は種まく縄文人の姿など、考えもしないことであった。
 鳥浜貝塚の五五〇〇年前の栽培植物は、学界に大きな刺激を与えたことは確かである。わが国にもともと野生種のなかったこれら一連の渡来栽培植物は、確実に縄文農耕の始まりを物語っているからである。縄文人の家庭菜園のようなものをイメージする考え方もある。鳥浜貝塚のいわば縄文人の財産目録ともいうべき出土品、とりわけ木器類・漆製品と縄や編物類の繊維製品など、これまで出土例のきわめてまれなものをよく観察すると、あながち鳥浜貝塚の縄文農耕の存在を全面的に否定する根拠は乏しいようである。



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