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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     三 ふるさとの遺跡をめぐって
      低湿地遺跡
 従来は、泥炭遺跡などともよばれていたが、最近では低湿地遺跡という言葉が一般的に使用されている。端的にいえば、遺跡が水漬けになったような状況をいい、遺物も水漬けで出土する。この種の遺跡は、数的にもきわめて少なく、まれな遺跡といわれていた。つまり、遺跡の立地が問題で、海抜〇メートル以下か、それに近い地点に存在する遺跡だからである。なぜこの低湿地遺跡が注目されるかといえば、いわば大自然が形成した保存庫のようなもので、豊富な地下水と冷暗な状況下で腐敗の速度が緩慢になり、通常では残存することが考えがたい有機質の遺物が保存されているからである。
 縄文人のタイムカプセルとよばれる鳥浜貝塚を例にとれば、いかに重要な情報を有する遺跡かがわかる。つまり木や草や種子などの有機質の遺物は、当然のこととして廃棄されたら腐敗する。ところが、これらが集落のすぐ近くの湖に投棄されたので、後世に土砂が堆積して偶然とはいえ完全に保存された。腐敗するのは毛皮や肉類などの蛋白質の遺物ぐらいで、あとは完璧に近い保存がなされている。だから、きわめて生々しい資料が得られる。いわゆる植物性自然遺物としては木・葉・草・種子・球根・果皮・花粉、動物性自然遺物としては、動物骨・糞石・昆虫、人工遺物としては木製品・編物・縄類・骨角器類などがある。通常の縄文遺跡からは出土しない遺物である。そしてこれらの遺物は、自然科学分野との共同研究で一層いきいきと縄文人の生活を蘇らせてくれる。例をあげれば、年代測定・花粉分析・木の樹種分析・動物骨分析など無数の分析研究の可能性がある。そして、それらによって当時の気候・植生・動物相の復原など縄文人をとりまく環境が復原可能となる。
写真20 北堀貝塚付近

写真20 北堀貝塚付近

 三方町内の低湿地遺跡は、後述するように、低湿地遺跡の博物館の様相をなしている。県内でも低湿地遺跡が、かなり分布していることが判明している。古くから知られている遺跡としては、北堀貝塚(福井市、写真20)がある(上田三平『越前及若狭地方の史蹟』)。この遺跡の立地は鳥浜貝塚とよく似ていることが注目される。福井市の西部を流れる未更毛川が日野川と合流する地点に所在する。北堀貝塚は縄文時代の早・前期に属する低湿地性貝塚で汽水産のヤマトシジミを主体とする貝塚のようである。県教育委員会による範囲確認などのボーリング調査などで遺物包含層も確認されている(『福井市史』資料編一)。
 深坂小縄遺跡(福井市)も昭和五十七年土地改良時に発見された遺跡で、水路掘削工事の際に表土から約一メートル下に遺物包含層が検出されている。試掘調査で、縄文時代前期の豊富な土器・石器が得られた(木下哲夫・工藤俊樹「福井市深坂小縄遺跡試掘調査略報」『古代』七三)。この北方にある浜島遺跡(福井市)も縄文時代前・中・後期の遺跡で、昭和五十一・五十二年には、この遺跡周辺の古地形・古環境復原を目的とした調査が実施された(市原寿文ほか「縄文後・晩期の低湿地遺跡と古環境復元」『考古学・美術史の自然科学的研究』)。舟津貝塚(芦原町)も、昭和四十四年に福井県の史跡に指定された縄文時代中・後期の遺跡である(『資料編』一三)。
 一方、若狭地方においても、低湿地遺跡は三方町を中心にかなり知られるようになった。大島半島の青法遺跡(大飯町)は、浦底集落南の谷間の水田のなかにある。昭和五十八年の土地改良時に土器・石器が発見され、縄文時代早・前・中期に属する低湿地遺跡である(『資料編』一三)。同じ大島半島の寺内川遺跡(大飯町)は昭和四十三年に発見された遺跡で、縄文時代前・中・後期に属する。土器や石器のほかにも小量の骨片などが検出されている(大飯町教委『大島寺内川遺跡』)。阿納尻遺跡(小浜市)は、縄文時代前・中期の遺跡である。それは、小浜湾を臨む水田にあり、遺物包含層は現海水面下にあり、土器・石器のほかクルミや動物骨の細片などが出土している(『小浜市史』通史編上)。若狭の青法・寺内川・阿納尻の三遺跡とも海に面する低湿地遺跡で、有機質層の分解が早く、その保存はあまり良好ではない。植物性遺物はせいぜいクルミぐらいしか検出されていない。



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