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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     三 ふるさとの遺跡をめぐって
      雪の考古学
 ここで、発掘調査の実施された三遺跡の概要を紹介し、その成果にもとづいて「雪の考古学」についての論を進めたい。後野遺跡は、現在の後野集落と基本的に重なって位置している。遺跡の範囲は、東西一〇〇メートル以上、南北五〇メートル前後とかなり広いことがわかっている。調査は、集落の南側の石徹白川右岸の畑地を対象としている(和泉村教委『後野遺跡』)。その結果、出土した土器のなかには縄文時代早期に属するものが検出され、この地に少なくとも七〇〇〇年前に縄文人の足跡を追求できることが判明した。遺構としては、住居跡にともなうとみられる石組の炉跡が合計五基確認されている。炉跡のなかには土器片が敷き詰めてある例も検出されている。竪穴式住居跡として柱穴やプランが明確に確認されたのは、三号住居跡で、直径五メートルの円形プランを呈し、主柱は六本で、ほぼ中央に方形の石組炉をもつ。時期的には縄文時代中期後半に属する。
写真19 角野前坂遺跡1号住居跡の複式炉

写真19 角野前坂遺跡1号住居跡の複式炉

 角野前坂遺跡も現在の集落と重複して位置している。遺跡の範囲は、東西約九〇メートル、南北約六〇メートルと推定されている。調査は、石徹白川左岸の河岸台地の川に沿った水田・畑地を中心に実施された(『和泉村史』)。これは、福井県の考古学史上では、縄文時代の集落の構造が明らかにされた遺跡として、画期的意義をもつものと注目された遺跡である。集落跡としては、第一号から第五号住居跡が明らかにされた。とくに、プランの明確な第二号住居跡は六本の主柱を有する楕円形で、長軸が約六メートルの規模のものであった。中央には敷石炉があったと思われるが、石がすべて抜かれていた。第四・五号住居跡は重複しており、主柱は四本で、ほぼ三・七メートルの円形プランの規模である。第四号住居跡の炉は、円形プランの敷石炉であり、重なっている第五号住居跡の炉は、敷石が方形である。第一号住居跡は、プランが明確にされなかったが、炉跡に特色がある複式炉が検出されている(写真19)。この住居跡にともなって二基の屋外埋甕遺構が確認された。また第三号住居跡の炉跡は土器片が敷き詰められていた。第五号住居跡の炉の西南約五〇センチメートルほどの床下には、第一号住居跡でも確認された埋甕遺構が検出されている。これらの住居跡の時期は、縄文時代中期後半であり、約四〇〇〇年前の時期に集落が営まれていたことを物語っている。
 小谷堂遺跡もまた現在の集落と重複して立地している。この遺跡は戦前から知られていた(『福井県史蹟勝地調査報告』一)。遺跡の範囲は、後野遺跡と同様、東西約一〇〇メートル、南北約八〇メートルほどである。調査は石徹白川右岸の台地上で、当時の民家付近の畑地を中心に実施された(『和泉村史』)。遺跡のほぼ西の畑地から竪穴式住居跡が一基検出されたのは昭和四十一年のことで、明確なプランのものとしては、県下初の発掘例である。これ以外にも住居跡が存在することは十分予想されたが、離村であわただしく調査がなされなかった。第一号住居跡は、主柱が四本の隅丸方形プランのもので、長辺三・三メートル、短辺三・二メートルの小規模な住居である。この住居は、黄色粘土を敷き詰めた貼り床構造であり、炉は敷石炉であった。時期的には、縄文時代中期後半から末にかけての集落跡と推察されている。
 石徹白川中流域から上流域にかけては、離村以前の集落と重なるように、縄文時代の中期を中心に縄文ムラが営まれていたことが判明した。さらに戦後岐阜県に合併された石徹白地区(岐阜県郡上郡白鳥町)でも、石徹白川最上流の縄文遺跡として、下在所の清水遺跡や上在所の長者屋敷遺跡が知られている。遺跡は標高七〇〇メートル前後に立地し、時期も縄文時代中・後期に属する。
 以上のことから、約四〇〇〇年前の日本の人口が約二〇数万人と考えた場合(小山前掲書)、実に人口密度の高い、過密なムラが石徹白川の流域に点在していたことは確実である。さらに、角野前坂遺跡の第一号住居跡の複式の敷石炉は、縄文時代中期後半以降の北陸や中部山岳地方に特有の炉跡という注目すべき点があげられ、複式炉の南限ともいえるようである。また、角野前坂遺跡や後野遺跡で確認された敷石炉の炉床に土器片を敷き詰める例も、複式炉と同様北陸・中部山岳地方に類例が多いという特色ある事実も判明している。
 石徹白川流域の住居跡柱穴は、平野部のものと比較してもとくに太く頑丈な柱が使われていた形跡はみられないものの、鳥浜貝塚(三方町)の縄文時代前期の層序などから層の季節性が明確にされており、石徹白川流域の縄文人も、四季を通じてこの地に生活していたのではなかろうかと考えられる。集落としてとらえられる角野前坂遺跡の縄文ムラを描けば、石徹白川寄りの縁辺部に一〇数軒でムラをつくり、その中心部に広場が設けられ、四季を通じて食糧が豊富に獲得できたようだ。山の幸としては、山菜・芋類それにイノシシ・シカ・カモシカなどの獣類、クルミ・ドングリ類の木の実、それに産卵のために九頭竜川を溯上してくるサケ・マスなど、季節が与えてくれる食糧が考えられる。
 現代の日本海側を特色づけているのは、豪雪という世界でもまれな風土的特性である。当時も同様に多雪であった風土のもとで、縄文人が冬のきびしい自然と戦いながら、そこでひたむきに生きたその生きざまがひしひしと伝わってくる。



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