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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     三 ふるさとの遺跡をめぐって
      和泉村の縄文遺跡
 福井県は豪雪地帯として、いかに冬季間をしのぐかが積年の課題であった。縄文時代においても、雪は彼らに重くのしかかっていたに違いなく、ここでは縄文人と雪とのかかわりを考えてみたい。冬季には二メートルを越える積雪になる大野郡和泉村の縄文遺跡の例を取り上げて、いわば「雪の考古学」について論を進めたい。
 和泉村に考古学のメスが入れられるのは、昭和四十一年(一九六六)の『和泉村史』編纂のための発掘調査であった(『和泉村史』)。このころは、昭和四十年から着手された奥越電源開発工事にともなうダム建設の水没予定地を中心に急激な離村が進んでおり、総合的な考古学調査は当時として珍しかった。
 翌年の遺跡分布調査において確認できたのは九遺跡であったが、地域によっては民家が壊され、田畑は野草に覆われ、遺跡の有無の確認の不可能な所もあった。とくに水没予定地においては、さらに遺跡があったであろうことは推察できる。当時としては、標高の高いこの地に点在する縄文遺跡は珍しいことでもあり、九頭竜川上流域の縄文人の姿が解明されることが期待されていた。

表1 和泉村の縄文遺跡

表1 和泉村の縄文遺跡

 分布調査と後述する発掘調査にともなう聞き取りなどで、これらの遺跡の存在が明らかになったわけだが、縄文時代においてはこの地が過疎地域ではなく、過密地域であったことは興味深いこととして注目できる。さらに、この地域が県内有数の豪雪地帯でもあり、はたして冬季もこの地で縄文人は生活したのか、あるいは冬季は九頭竜川を下り移住したのかなどの興味深い研究課題が提起された。つまり、冬季は季節的移住があったのか、冬季もここに生活していたのかという「雪の考古学」の解明も期待できそうであった。
 発掘調査は、昭和四十一年に小谷堂遺跡、昭和四十四・四十六年に角野前坂遺跡で行われ、さらに昭和五十年には後野遺跡で圃場整備事業にともなう緊急発掘調査が実施された。
 九頭竜川の支流石徹白川の流域は、とりわけ遺跡の確認が数多くなされ、前述の発掘調査もこの地域でされている。貝皿と後野の間にある御庄ケ原遺跡は、水田が広がる日当たりも良好な地である。水田の奥の上段には屋敷跡があり、石垣も残っていた。地元の人がこの御庄ケ原で石鏃数点を採集しているが、土器は発見されていない。ただ、確実に縄文遺跡は存在したようであり、可能性としては縄文時代の中・後期の遺跡の存在が考えられる。角野前坂遺跡の対岸の朝日前坂遺跡からも、畑地からかなりの量の石鏃が地元の人により採集されているが、土器の発見には至ってない。時期的にはやはり、縄文時代中・後期の可能性が濃厚である。



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