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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     二 縄文人の足跡
      晩期の遺跡
 縄文文化の終わりを告げるこの時期は、今から約二五〇〇年前で、福井県の遺跡の数もきわめて減少する。この傾向は全国的にみられ、人口の減少としてとらえられている。人口の算出でも、晩期は約七万六〇〇〇人とされている。この時期の遺跡としては、鹿谷本郷遺跡、佐開遺跡、成仏・木原町遺跡(永平寺町)、木部東遺跡(坂井町)、林遺跡・糞置遺跡(福井市)、ユリ遺跡(三方町)などがある。
写真18 成仏・木原町遺跡合口甕棺の出土状況

写真18 成仏・木原町遺跡合口甕棺の出土状況

 佐開遺跡・林遺跡からは、東北地方で盛行したいわゆる亀ケ岡式土器の影響がみられる土器が相当量出土して注目される。成仏・木原町遺跡では、平成三年に農道整備事業にともなう事前発掘調査が実施され、晩期後半の良好な遺構や遺物が検出されている(天井康昭「成仏・木原町遺跡」『第七回発掘調査報告会資料』)。この時期の県内の遺跡としては最大の規模であり、三〇基以上検出された合口甕棺墓群(報告者は、合口土器棺墓としている)は特異な存在で注目される遺構である(写真18)。甕棺の中から人骨も検出されているようである。
 木部東遺跡からは、晩期の所産と考えられる全長二〇・八センチメートルの装飾を施した珍しい御物石器と全長三六・四センチメートルの異形石棒ともいうべき石器が、大正六年(一九一七)に採集されている(『資料編』一三)。ユリ遺跡については、後述の低湿地遺跡でもとりあげるが、平成三年の調査でほぼ全容の判明する丸木舟が一隻出土しており、晩期中葉の滋賀里V式の深鉢も伴出したということである(田辺常博の教示による)。
 晩期が終わりを告げるのは、大陸や朝鮮半島からの稲作や金属器の伝播により、それまでの採集活動を中心とした生業から、本格的な農業の始まりが北九州にみられる時期である。若狭湾沿岸の遺跡から北九州の遠賀川式土器が発見され、さらに若狭湾内陸部の丸山河床遺跡(小浜市)からもまとまって発見され、弥生前期の文化が若狭地方に相当早い時期から伝播したことがわかり始めている(『小浜市史』通史編上)。



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