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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     二 縄文人の足跡
      中期の遺跡
 約四八〇〇〜四〇〇〇年前のこの時期になると、県内の遺跡の数も増加して、一〇〇か所を越える分布がみられる。わが国の縄文文化が最も栄える時期であり、縄文人の人口も最も多い時期でもある。北海道を除く全国の遺跡の数を参考に算出した中期の人口は、二六万一三〇〇人で、そのうち北陸地方は七万二〇〇〇人と算出されている(小山修三『縄文時代』)。この説については異論がかなり出されているが、中期の人口が一〇〇万人を越えることは到底考えられず、現存している正倉院の戸籍・計帳などによりある程度判明している奈良時代の人口が約六〇〇万人と推定されることからしても、算出された数は、それほど現実離れしたものとはいえない説得力のある数だと考えられる。
 中期の代表的な遺跡としては、的場遺跡(金津町)、舟津貝塚・井江葭貝塚(芦原町)、右近次郎遺跡・落合遺跡・佐開遺跡(大野市)、三室遺跡・古宮遺跡(勝山市)、西中遺跡(美山町)、浜島遺跡・天神遺跡(福井市)、片粕遺跡(清水町)、栃川遺跡(朝日町)、常安遺跡(池田町)、下新庄遺跡(鯖江市)、高森遺跡(武生市)、浄土寺遺跡(美浜町)、阿納塩浜遺跡(小浜市)、立石遺跡(高浜町)などがある。
写真15 天神遺跡出土の縄文土器

写真15 天神遺跡出土の縄文土器

 中期の土器の地域性については、『福井県史 資料編一三』にゆずるとして、竪穴式住居跡の検出例がかなり判明している。石徹白川流域の遺跡群(三項)のほか、右近次郎遺跡からは、住居の平面形は明確ではないが、一一基の石囲い炉跡が判明し、三室遺跡でも石囲い炉が判明している。天神山古墳群(福井市)の調査にともなって発見された竪穴式住居跡は、中期後半に属し、一部平面形もしっかりした良好な資料である(『福井市史』資料編一)。直径一二メートルの円墳の下から、竪穴式住居跡七基、集石遺構一基、炉跡六基、埋甕七基などが集中して検出されている。平面形の判明したものとして、五・六号住居跡がある。五号住居跡は、直径約四・八メートルの円形の平面形で、中央に石囲い炉があり、住居の床面から大杉谷式土器を検出している。六号住居跡は、一辺が約四・四メートルの方形の平面形で、中央に炉跡があり、住居内より六基の埋甕が発見されている。
写真16 県内出土の土偶

写真16 県内出土の土偶
(上:下新庄遺跡、下:三十八社遺跡)

 中期の代表的遺跡として片粕遺跡があり、土器も器形の判明するものが多数確認されている(『清水町史』)。
 中期の特異な遺物として、高森遺跡出土の翡翠の大珠がある(青木豊昭「高森遺跡の硬玉製大珠」『福井考古学会会誌』一)。翡翠は新潟県の姫川流域に限って産出する石で、交易の問題でも興味深いことである。また、下新庄遺跡からは、土偶が出土している(『資料編』一三)。縄文時代の土偶の出土例としてはこのほか三十八社遺跡や鳴鹿手島遺跡(永平寺町)からの報告がある。
 中期は地域性がより明確となる時期であり、若狭地方の阿納塩浜遺跡を例にとれば中期末の時期が中心で、土器の編年からいえば、近畿地方の醍醐V・式と北白川C式の土器が主体を占める。それに北陸の大杉谷式・串田新式併行の土器が混在するというように近畿地方の強い影響下に、実際は各地の文化の波及がみられる。九頭竜川上流の石徹白川流域の中期の遺跡群については三項の「雪の考古学」でとりあげる。



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