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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     二 縄文人の足跡
      早期の遺跡
 この時期の遺跡はその数がかなり増加する。かなりまとまった資料が出土している遺跡としては、破入遺跡(勝山市)がある。遺跡は勝山市滝波の集落の水田のなかに所在し、九頭竜川右岸の河岸段丘上にある。昭和五十一年に圃場整備事業の事前発掘調査が実施され、土壙などの遺構が発見され、土器・石器の遺物も出土している。とりわけ土器は、押型文土器とよばれる西日本一帯に広く分布する土器が検出されている(写真13)。これらは、押型文土器のなかでも、近畿地方で明らかにされている高山寺式土器とよばれるきわめて個性的な土器で、粗大な楕円あるいは菱形の文様が施文されている。このうち、土器の器形が判明している深鉢形のものがある。復元した土器は口径が約四九センチメートル、高さが約四五センチメートルの大型の尖底土器で、この時期の土器としては県内では珍しい資料である。これにともなう石器としては、石鏃・スクレイパー・石錘・石皿・磨石・磨製石斧などが報告されている(勝山市教委『破入遺跡』)。
写真13 破入遺跡出土の押型文土器

写真13 破入遺跡出土の押型文土器


写真14 岩の鼻遺跡の竪穴式住居跡

写真14 岩の鼻遺跡の竪穴式住居跡

 鳥浜貝塚においても、早期の資料が得られている。とりわけ注目されるのは遺物の出土状況である。厚さ五センチメートル前後の真白い火山灰を挟んで、押型文土器や石器・木器、種子や自然木が得られた。火山灰は、日本海(東海)にうかぶ大韓民国のウルルン島(欝陵島)から飛来した広域火山灰で、近畿地方を中心に検出されており、三方火山灰と命名された(町田洋「鳥浜貝塚から検出された火山灰層」『鳥浜貝塚』二)。火山灰が降下した年代は今から約九三〇〇年前で、火山灰はごく短期間ではあるが、一〜二日降り続いたようである。
 早期の遺跡としては、もう一つ岩の鼻遺跡をとりあげたい。若狭地方で城谷義視によって発見された最初の縄文遺跡として著名であるが、昭和六十・六十一年に南川改修工事のための事前発掘調査において、県内で最古のムラの跡が発見された(福井県教委『岩の鼻遺跡調査概報』一・二)。前述の破入遺跡より古く、神宮寺・大川式とよぶ押型文土器の時期で、ほぼ九〇〇〇年前という古い集落で、合計六軒の竪穴式住居跡が発見された(写真14)。竪穴式住居跡は、ほぼ円形の平面形を呈し、直径が約二・五〜五メートルのものが五軒で、ひときわ大きな家が一軒発見されており、直径約七メートルある。これらが同時期の住居であるのかは疑問であるにしても、川に生活の拠点を置いた縄文人のムラが明らかにされ、北陸地方でも最古の集落である。



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