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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
     二 縄文人の足跡
      草創期の遺跡
 土器編年の歴史のなかで、長らく草創期は「早期」の古い段階に位置づけられてきたが、研究の進むなかで二つの時期に区分された。この時期の遺跡として知られているのは、鳴鹿山鹿遺跡(永平寺町)と鳥浜貝塚である。とりわけ、鳴鹿山鹿遺跡はわが国の考古学史のなかでも、早くから注目され報告された遺跡として著名である。明治三十年(一八九七)大野延太郎が「大なる石鋒と精巧なる石鏃」(『東京人類学雑誌』一四〇)と題して報告している。それによれば、遺物は明治元年前後の用水工事の際に発見され、その出土状況は、石核二点の上に大なる石鋒を横たえ、その下に三〇余点の精巧なる石鏃が納められていたという。現存する遺物は、有舌尖頭器二三点、大野のいう「大なる石鋒」の大型打製石器一点、石核二点があり、そののちに付近から地元民によって局部磨製石斧一点が発見されている。とりわけ、「精巧なる石鏃」と表現された有舌尖頭器は、柳葉型を呈する華麗で精巧なつくりである(図1)。大型のものではその長さが一五センチメートル前後もあり、石材はチャートや流紋岩系、中型のものは長さ一〇センチメートル前後で、石材は安山岩系が中心で、砂岩系も少数混在するらしい。小型のものは、七センチメートル前後のものと、それより短いものがあり、ずんぐりとした形態で石材は安山岩とされる(『資料編』一三)。
図1 鳴鹿山鹿遺跡出土石器の実測図

図1 鳴鹿山鹿遺跡出土石器の実測図

 鳴鹿山鹿遺跡の有舌尖頭器を中心とする遺物群は、全国的な研究成果から推して、草創期の古い方の時期の所産と考えられ、越前地方の縄文文化の始まりを示すものとして重要である。つまり、縄文文化が開始された段階を示す石器群であるといえよう。大型のものは旧石器文化の石槍の流れを残し、小型のものは、縄文文化の石鏃の流れを示していると思われる。なお、県内での有舌尖頭器の出土は、王山二五号墳(鯖江市)より一点、姥ケ谷古墳(三国町)より一点、岩の鼻遺跡(名田庄村)から一点ときわめて少ない。そういう意味からも鳴鹿山鹿遺跡の出土例は、珍しいものであり、廃棄されたというより、意識的に埋納されたものと思われ、一括埋納(デポ)ともいうべき性格のものといえよう。
 より具体的に、草創期を物語る遺跡としては鳥浜貝塚があげられよう(以下、本節における鳥浜貝塚の叙述は、おもに森川昌和「縄文人の知恵と生活」『日本の古代』四による)。昭和四十七年の第三次調査で、最下層から多縄文系と称する土器がまとまって出土してその存在が明らかになった。さらに、石器や木製品・繊維製品、それに動物骨や種子をはじめ木などの有機質の人工・自然遺物が豊富に出土した。放射性炭素の年代測定では一〇二七〇±四五BPとされ、今から約一万年前の生活を物語る膨大な資料がその姿を現わしたのである。調査の過程で、爪形文・押圧文土器が検出され、ついに隆起線文土器とほぼ縄文文化の開始を告げる時期にさかのぼる所までたどりついた。同様な年代測定でも、前者の土器は一〇七七〇±一六〇BP、後者の土器は一一八三〇±五五BPの測定値がだされた。この両者の土器にともなって、石器類や木製品、植物性自然遺物も出土している。
 さて、鳥浜貝塚で検出された県内で最も古い隆起線文土器は、土器の口縁部に二条の細い粘土紐をめぐらし、その上に上下から斜めに刻みを入れている。土器の底部は丸みをおびた平底である。土器としては、高さ約二〇センチメートルの小形のものである。一例だけであるが、この隆起線文土器にともなって、土器のほぼ全体を復元することが可能な珍しいものが出土している(写真12)。この時期の土器としては多彩な文様構成で、口縁に沿って円形の刺突文をつけ、その下に斜格子文を沈線でつけ、その下に三条のD字形の爪形文を構成している質のいい土器である。隆起線文土器は、九州から東北地方にかけて各地で発見され、その広範囲な分布に特色がある。この土器が出土する遺跡の規模は一般に小さく、遺物の量も多くない。それらのことから、隆起線文土器の段階は、居住期間が短いといわれている。
写真12 鳥浜貝塚出土の斜格子文土器

写真12 鳥浜貝塚出土の斜格子文土器

 しかしながら、多縄文系土器の段階になると、この様相は激変する。どうやら、三方湖畔に本格的な定住生活が開始されると思われる。それは、石器・木製品が豊富に検出されることや自然遺物のなかにヒョウタンの果皮があることなど、とにかく大量の遺物が得られている。
 草創期は、先述したとおり、鳥浜貝塚の花粉分析などの成果によって福井県の当時の気候や植生が明確にわかっていることについてもふれておきたい。
 約一万二〇〇〇年前の福井県は、今より冷涼で、現在の青森県ぐらいの気温といわれる。平野部でもブナの木が繁茂していたようで、鳥浜貝塚では草創期の層から、膨大な量のブナの実が出土している。ブナ・ミズナラなどの冷温帯落葉広葉樹林が拡大していたのである。ところが、今から約一万年前になると、温暖化が進みナラ・クリなどを中心とした暖温帯落葉広葉樹が拡大するようになる。この段階が、先に述べた多縄文系の段階で、木の実を豊富にもたらす森の誕生でもある。鳥浜貝塚からは、この時期の土器のほか木器・石器や動物骨なども出土している。



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