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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
    一 はじめての福井人
      福井県での最初の発見
 わが国の旧石器文化が、在野の研究者によって明らかにされたことはすでに述べたが、福井県における旧石器文化の存在の発見も、博物学に造詣が深く、ふるさとの自然をこよなく愛した老人の鋭い観察力のたまものであった(三国町教委『西下向遺跡』)。昭和四十二年五月、三国町大湊神社の松村千尋宮司は、同町米ケ脇にたてられた高見順文学碑除幕式出席の帰りに、ここから伸びる荒磯遊歩道の道路断面から一点の石器を引き抜いた。地表下約一メートルで、堅い赤土の中からであったという。松村はこの石器だけではなく、町内で採集した遺物類を丹念に整理し神社に保管していた。
 昭和五十六年になり、石川県の梶幸夫、福井市の松井政信が旧石器であることを明らかにし、このコレクションを鑑定した専門家もこれを裏づけた。
 松村は大湊神社から約二〇〇メートルの雄島からも旧石器時代に属する石器を採集し、三国町陣ケ岡の台地からも同様な石器を採集していた。それぞれ雄島遺跡・馬コロバシ遺跡と命名されている。まったく偶然の発見とはいえ、福井県の旧石器文化研究の事始めは、松村からであった。
 この福井県最初の旧石器文化遺跡は西下向遺跡と名づけられた。発掘調査は、三国町教育委員会主催で昭和五十七年に二次にわたって実施され、さらに旧石器研究者が主体となって昭和五十八年に第三次調査が実現する運びとなった。三次にわたる発掘調査の結果、地表下二五〜八〇センチメートルから合計一二七点にのぼる旧石器時代に属する石器群が出土したわけで、大いなる成果があがった。また、永平寺町高橋字「木橋」においても、昭和五十七年から五十八年にかけての圃場整備事業にともなって、山口昭彦により採集された石器が旧石器文化に属するものと確認されている。



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