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 第一章 原始時代の社会と文化
   第一節 ふるさとのあけぼの
    一 はじめての福井人
      旧石器文化
 昭和二十四年(一九四九)、群馬県笠懸村でわが国の考古学史上画期的な発見があった。赤城山麓で、行商をしながら土器や石器を収集していた在野の考古学者相沢忠洋が、関東ローム層とよばれる赤土の中から黒曜石の石器を発見した。これら一連の石器群は、のちに明治大学考古学研究室によって確認され、これまで、わが国に旧石器文化は存在しないようにいわれていた定説は覆された。そののち、旧石器時代の遺跡は全国的に発見が相次ぎ、縄文文化以前の文化の存在が明確になっている。
 縄文文化以前のこの文化は、「先縄文文化」とか「先土器文化」などの言葉で表現されたが、世界史のうえでは旧石器文化であり、ここでも旧石器文化で統一して述べることにする。この文化の時代は、地質学上、第四紀更新世(洪積世)とよぶ。更新世後半には四回におよぶ氷期があった。このうち最後の氷期をウルム氷期(約七万〜一万二〇〇〇年前)とよび、世界的に気温は下降し、火山活動は盛んであった。現在でも、北海道の日高山脈や日本アルプスに氷河の痕跡が知られている。
 ウルム氷期には、海水面が大幅に低下し、日本列島は、本州・四国・九州が陸続きとなり、瀬戸内海は存在せず陸地であり、朝鮮半島や北海道は陸地で結ばれていた。そして大陸から、ナウマン象・オオツノジカ・野牛・マンモス象・ヘラジカ・ヒグマなどが移住してきたようだ。事実、これまで一〇回以上の発掘調査が実施された野尻湖湖底遺跡(長野県信濃町)からは、ナウマン象やオオツノジカの化石が多数出土しており、石器・骨角器なども発見されている。
 またこの氷期は、当然のことながら著しく寒冷であった。その様相はボーリング調査によって知ることができる。最近も、三方湖湖底のボーリング調査により、精力的に研究が推進されている。詳細は研究途上のため明らかではないが、昭和五十五年十一月には、鳥浜貝塚(三方町)に近い三方湖で、三二・三メートルの深さまでボーリング調査をして湖底の堆積物を採集し、年代測定・花粉分析が実施されている(安田喜憲『世界史の中の縄文文化』)。これらの研究成果は、身近なふるさとの植生・気候の情報をこれまでより具体的な資料で示すものであり、世界的な研究の成果として注目されている。
 その花粉分析の結果の紹介を進めていきたい。三方湖湖底の堆積物の年代測定によると、湖底三二・三メートルの堆積物には約五万年間の貴重な情報が詰まっていることが明確にされた。その結果は、花粉ダイアグラムで具体的に示されている。
 MG花粉帯と命名された時代は、最も下層の今から五万〜三万三〇〇〇年前の時期で、スギ属が著しく高い出現率を示し、調査した研究者は「スギの時代」とよぶ。スギ属とともに、ブナ属・コナラ亜属・ニレ属・ケヤキ属・ハンノキ属なども高い出現率を示す。このうちのブナ属花粉の大半はブナで、スギ属とブナ属の花粉が高い出現率を示すこの時代は、「湿潤・多雨・多雪気候が支配的」(安田前掲書)な状況下にあった。
 MG花粉帯の上部のFG花粉帯は、三万三〇〇〇〜一万五〇〇〇年前の時期である。冷涼で湿潤な気候であった「スギの時代」は、約三万三〇〇〇年前に終わりをつげるようである。ツガ属・五葉マツ亜属・モミ属などが代わって高い出現率を示してくる。ツガ属の多くはコメツガの花粉のようで、ツガ属は本来太平洋側の少雪地帯を中心に分布するということである。このことは、今から三万三〇〇〇〜三万年前に三方湖周辺の植生が、現在の冷温帯〜亜高山帯を中心に分布する針葉樹の森林に変化したことを物語る。気候的には、「寒冷・乾燥気候」となり、降雪量はきわめて少なくなっている。今とまったく異なる気候が判明したわけで、きわめて興味深い。



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