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原始・古代 序章
 『福井県史』通史編の最初のこの巻は、原始社会からほぼ十二世紀、つまり平安時代の末ごろまでの期間を分担する。すなわち、福井県域に初めて人類の生活のあとが認められる旧石器時代いらい、人びとが長い歴史の営みを重ねたあと、中世社会のいくつかの特徴が兆しはじめるまでの期間である。
 したがって、この間に形成された歴史の内実と達成は、まさにのちの福井県の歴史の基本的な枠組となったものであり、その歴史的特質はとりわけ的確に把握される必要がある。当然、それは、実際の歴史の展開過程のなかから把握されるところと、現在の歴史学・考古学・地理学……など諸分野の学問的水準や課題とのかかわりにおいて指摘できるところと、少なくとも両面をあわせもっていることを要する。そして、できるならば、これらに加えて、今後さらに拓かれていくであろう新しい分野と成果を予見した視点も提示できればよいが、と思う。このように考えて、執筆者一同の討論のうちから章・節を立てて巻の構成をととのえ、叙述を進めた。
 ところで、執筆をはじめた時点において、のちの福井県の歴史の基本的な枠組みとなった古代的特質とは、どのように把握されたか。もちろん、それはこの巻のどの時期のどの分野についても指摘できる。だが、少なくとも明治末〜大正前期(一九一〇年代)―この時期から日本海域は「裏日本」視されるようになった―までの福井県を見通した場合、前近代の当初をなす古代ではどの時期にどのような歴史的特質があげられるか。このように考えた場合、おのずからとりあげられる論点と局面は絞られてくる。
 以下、それらについて、『通史編』1の序章として述べておきたい。

 福井人のはじめともいえる人びとが福井県域に住みついたのは、旧石器時代からであった。しかし、それらのうち、生活の営みの内容をとりわけはっきりとみせてくるのは、縄文時代の若狭の鳥浜貝塚を遺した人びとであった。かれらの盛んな生産活動と衣・食・住はもとより精神活動においても到達していた生活文化の多様な内容と水準は、それまでの縄文文化についての理解をはるかに超えるものであった。いま、学界では、縄文人の生活動態すべてにわたる立体的な復原をベースにした縄文文化論が新たな展開をみせはじめているが、鳥浜貝塚の発掘はまさにそうした展開の糸口を大きくひらいたものであった。
 そして、かれらが採集した自然の食料や栽培した食用植物のうちには、明らかに南方諸島や大陸からのものも北方系のものもある。食物だけでなくかれらの生活用具も、現地で採ったり創出したもののほか、漂着してきたものは広く海外の生活文化とつながっていた。日本海の海流によってである。こういう特徴が早くも認められる。日本海域のほぼ中央部を占め、長大な海岸線をもつ福井県の歴史と文化は、初めから、のちにヤマトの人びとから「北の海つ道」とよばれた海上のルートを通して、広い国際的背景をもって形成されはじめたのであった。
 このことは、福井県域の人びとが本格的な食料生産としての米作りをはじめた、いわゆる弥生文化への移行の際にも無視できないことであった。初め北九州に根づいた稲作は、日本海流に乗って一気に津軽半島に及んだルートにも検討がすすめられているが、福井県域へも、西方から海岸沿いに逐次に及んだのとあわせて稲作は波及したらしい。そして、河川の流域をさかのぼって広まった。しかし、弥生文化への移行については、海の道の影響を過度に重視するわけにはいかず、近畿地方からも淀川をさかのぼり近江を経由し、あるいは東方から山越えに及んだ弥生文化がすでに流入していた。端的には人びとの用いた土器にみられる特徴からそれが確かめられ、北九州・出雲系土器のほか近畿地方や尾張など東海地方の土器の流入も指摘されている。近江あるいは尾張へと通じた山の道も、福井県諸地域の生活文化の形成に海の道に劣らず重要な意味をもちはじめていたのである。
 さらに、ここに形成されはじめた弥生文化の特色を福井県の歴史の原形として理解しようとするとき、海の道を通してであれ山の道を通してであれ、外域からの影響を過度に重視することは妥当ではない。この時期には、福井県域の内部から独自の生活文化やその技術が創出されていったからである。玉生産などはそれを端的に示すものであり、玉作が日本海域に固有のものとして発達していったなかでも、とりわけ重要な地位を占めるものであった。まさにそのような達成のうえに、弥生時代の後期に、県内諸地域にも成長しはじめた地域首長は、外域からの文化受容とともに独自の文化創出の主体として、地域的な政治勢力の中心にたっていた、といえるであろう。

 福井県の地域首長とそれを支えた人びとの動きが飛躍的にはっきりしてくるのが、次の古墳文化の時期であった。急速に解明が進み多くの知見がたくわえられてきた考古学的資料と、ようやくこの時代の動きにも言及しはじめる文献史料と、両方からの関連的な考察が可能になるからである。とくにこの側面に関しては、継体天皇の問題がある。
 およそ日本の古代国家の形成に関心をもつものにとって、継体天皇をどう理解するか、避けて通れない問題であろう。当然、この巻においても文献史学・考古学の両方から継体天皇論を展開している。従来の論考の水準と読みあわせてほしい。この天皇の出自については、近江説と越前説(一部には畿内説も)があるが、少なくとも、継体天皇(男大迹王)が幼少期を過ごしたのは越前であったことは、一致している。すなわち、母振媛の郷里(坂井郡丸岡町高向)においてであった。その地にあった男大迹王を支えた母の同族をはじめ在地豪族の実態については、この巻は県史の性質上からも、地域史的な知見をとくに集中的に提示した。つまり、『釈日本紀』に引用される『上宮記』の系譜にもとづく考察や、現地に発見された北陸最大級の前方後円墳で構成される六呂瀬山古墳群を中心に現地の諸古墳群の知見について整理された特色である。とくに後者については、前方後円墳をめぐって近畿から列島内各地へ広く波及してきた影響と同時に、たとえば石棺についてみられるようにきわめて明瞭な独自の地域的特徴をあわせもっていたこと、に留意してほしい。しかも、越前に急速に成長しはじめたこの地域勢力は、近江・尾張の地域勢力とも深く結んでいた。先述した山の道は、この段階からさらに重要なルートとなった。男大迹王を頂点にし、近江・尾張の有力な首長と結んだこの勢力は、近畿へ進出し、男大迹王はヤマト朝廷の大王についた。このことは、近畿地方の諸勢力を地盤にして成立し、五世紀末には抗争をはじめた吉備勢力も制圧していたヤマト朝廷に、日本海域と東海地方の歴史的達成をもち込む重要な契機となった。そして、そののちのヤマト朝廷の眼を、否応なく日本海域の動きに向けさせることとなったのである。
 ここに至って、主には、人びとの自然への対応によって形成されてきた福井県域の歴史の原型は、さらに飛躍した。つまり、社会的・政治的諸関係のほうが表に出て、福井県の歴史と文化は、近畿地方のヤマト朝廷ととりわけ濃密な関係をもつことになったわけである。

 しかし、男大迹王が大王位についた(継体天皇)ことによって、こののちも、日本海域に面し北陸地方から東北地方を背景にした福井県域の歴史的達成がそのままに、ヤマト朝廷はもとより近畿地方に波及しそれらの動向の基調となりつづけたわけではない。むしろ、逆であった。六世紀後半に入って、蘇我氏の主導しはじめたヤマト朝廷は、種々の新しい施策と優位な軍事的力量をもって、瀬戸内ルートの要衝を占める吉備をいちだんと強力に掌握し、さらに筑紫・出雲の地域勢力への制圧をすすめた。それは、朝鮮半島の百済と親交し新羅には遠交近攻策をとった外交政策と不可分のものであった。したがって、新羅の背後をおさえる意味もあって、ヤマト朝廷は、高句麗使が来着した越前とそれが入口をおさえた越(北陸)地方への政治的掌握を、六世紀末からとくに強めた。もちろん、ヤマト朝廷が、それに先立ってはすでに若狭と敦賀津を掌握していたこととて、そこが北陸掌握の拠点となった。この動きの前に、越前へはヤマト朝廷のきびしい支配が及んできた。有力な地域首長が嶺南では若狭・角鹿国造とされたのに次いで、嶺北でも高志・三国国造とされ、これら四国造を通じてヤマト朝廷への貢納の強制、地域住民の部民への指定と編成が、強力にすすめられたのである。
 その動きは、六三〇年代末から大和における百済宮・百済大寺の造営事業の力役への徴発、六四六年秋にはクーデター後の新ヤマト朝廷による臨時官としての「国司」の到来などにみられ、つづく六五〇年代後半の斉明朝からいちだんと強くなった。とくに斉明朝からの課役増強の背景には、新しい領土として東北地方とその住民である「蝦夷」の人びとへ支配を拡充しようとしたヤマト朝廷の政策があった。この政策は、六七二年の壬申の乱のあと、天武・持統朝に継承されて大きく拡充された。唐に学んだ律令制によってである。律令制とは、律令という成文法にもとづいた統一的な法治体制であった。

 若狭も越前も、この律令制のもとに七世紀末から組み込まれることになった。ここに福井県域も、原則としては、地域的特性への配慮よりも統一的な法のもとに画一性を重視する支配が強いられてくる時代に入った。福井県域は、若狭国造の治下は若狭国、角鹿・高志・三国の三国造の治下は越前国とされて、列島の各地方の国ぐにとならんで、その長官の国司には帝都の貴族が送りこまれてくることとなった。国司は、まさに天皇の「みこともち」としてその代理人であったし、国司の命令を、これも国の下に新しくたてられた行政単位である郡の長官=郡司を通して、住民はうけることになった。郡司にとりたてられたのは現地の豪族であったが、従来の治下を郡に分割されて領域が縮小された国造も、かれらとならぶ一郡司として国司のもとで福井県域の行政を分担することになったのである。 若狭国も越前国も、列島の本州各地にわたる統一的な法治体制=律令制の行政下に入れられた。とはいっても、その実施にあたっては、両国のこれまでの歴史的達成を無視できたはずはなく、若狭国は国の等級の大上中下のうち「中国」であったが、越前国は北陸の「大国」とされた。
 「大国」とされた越前国は領域の広さや農業生産力の高さなどからだけではなく、実際に十世紀ごろまでは非常に活気のある殷賑の国とみられていた。その風評は、畿内の民衆のあいだにも広まっていたらしく、八世紀前葉の山背国で、重税ときびしい力役に苦しんで逃亡した農民たちが、主な逃亡先の一つに選んだのは越前国であった。これには、五〜六世紀いらいの治水・開発事業と高い農業生産力をうけついだ福井平野を中心に、さらにすすんだ活発な開墾や耕作農民の動きが裏づけとなっていた。律令政府じしんがこれを見過ごすはずはなく、直接の開発事業とその経営にいち早く乗り出した。それが、東大寺領の越前国のいくつかの荘園であった。
 これら越前国東大寺領荘園は、歴史学が初めて古代における大土地経営の実態や社会構造の解明に着手したとき、一九四〇年代初め(昭和十年代後半)からもっとも注目された研究対象であり、とくに五〇年代以降には多面的に追究された初期荘園である。その結果、経営主体であった東大寺の開発計画を推進した経営組織や在地豪族との関係、村落民の耕作・使役の形態、荘園の消長の過程と中央政界とのかかわりなどが解明され、その成果は現在の学界の重要な財産となっている。その成果が重要なだけに、それをどう継承しいかに発展させるか、とくに配慮した。論述に第五章のすべてをあてたのは、そのためである。そこでは、条里遺構の正確な復原(基礎作業は『資料編』一六下)や現地の景観もおさえたうえで、各種の文献史料・荘園絵図類などに再検討を加え、随所に新見解を提示しあるいは問題を提起している。それらは、初期荘園の考察方法と考察結果に、新生面を拓きえたものとひそかに自負している。大方の、さらなる批判をえたいところである。

 福井県域が、律令制下において、とりわけ重視されたのは、越諸国から「蝦夷」の住む地方へ通じる北陸道の「道の口」としてのほかに、いま一つ、対外交流の要点としてであった。
 六世紀代と七世紀初めまでは主に高句麗使が、七世紀後半からは新羅使も来航した。前者は、六世紀末の敏達朝いらい約半世紀のあいだは公式の外交関係をもったが、後者とは正式な国交関係はほとんどもたなかった。しかし、八世紀後半からは、日本海域には相次いで渤海使が来航するようになった。その回数は、渤海国が滅んだ十世紀前半までで三四回に及んだ。七世紀前半から九世紀末までの遣唐使が一七回であったのに比べても二倍である。ちなみに、遣渤海使の渡航は一三回で、越前国や能登など北陸道から出発した。
 渤海国との交流は、これまでから指摘されてきたように、律令政府と唐とのあいだの中継貿易であったということができる。それは経済面において物資を交易したという意味からだけではなく、文化面でうけた影響も少なくない。たとえば、わが国で太陽暦の採用以前にもっとも長く八二〇余年にもわたって用いられた唐の宣明暦は、能登国の珠洲郡に漂着し越前国を経て入京した渤海使によってもたらされたものであった。と同時に、渤海国じしんの物品や文物が伝わったこともまた軽視できない。渤海陶磁や毛皮などの輸入は早くから指摘されているところだが、八世紀中葉の恵美押勝(藤原仲麻呂)政権のときにつけられた官職や中央諸官庁の唐風の名称のうちには、渤海のそれによったものもあった。また、十世紀の平安京の宮廷で漢詩が盛行したのには、北陸における国衙の官人と渤海官人との交歓の場で漢詩を応酬しあった酬唱文学の成立したことが重要な一因となっていた。
 こうしたことから明らかなように、渤海国との交流が盛んにおこなわれたこの段階においては、北の海つ道=日本海ルートも、その意味を大きく変えていた。すなわち、それは、かつてのように海外の人や文物がいわば一方的に来航あるいは漂着してきたルートではなく、平安京の官人や日本海域の人びとが、主体的に政治的な海外文物の摂取を求める目的をもって渡航したルートになっていた。このルートに乗った動きには、律令政府の官人たちだけでなく、「蝦夷」の人びととの戦いや東北地方に城柵を築造した事業に動員された者たちもあり、身につけていた高度な技術を用いて出雲へ移って堤を築いた人びともあった。 陸上では、このころにはもちろん、人びとの生活や物資を運ぶ必要から多くの道路や山道ができていたが、それらに加えて、地域と帝都とを結ぶいわゆる官道が定められ、駅馬や伝馬の制度もととのえられていた。しかし、日本海の海上ルートは、右に述べたように、従前より以上の重要な意味をもつようになっていたのであり、律令政府はもとより福井県域の人びとの動きにも、列島内の各地方はもとより遥かな異国の世界への視野と動きを誘うものとなっていたのである。

 延長七年(九二九)の来航をもって、日本海に渤海使の船は見えなくなった。それより三〇余年前、すでに遣唐使も廃止されていたが、平安京にあって高位高官を独占しはじめていた藤原摂関家を中心とする政府は、新たな外交関係を展開する意欲もみせなかった。この摂関政治権力は、海外とくに新羅の脅威から生じる緊張関係に対する備えとして、むしろ神威の発揚を頼みとした。ここに、日本海域では、敦賀津にあった気比神の神威が着目されたのである。つまり、気比神は、若狭国でも越前国でも、古くからの信仰にもとづく在地性を保ちつづけた多くの式内社の神々とはちがって、とりわけ九世紀中期以後にはひとり神格を高め、その末期には、神階は畿外の神では最高の正一位勲一等に達し、厚い国家的尊信をうけていた。と同時に周辺の在地諸神を子神として統合していった。その急速な地位の上昇は、ほぼ同時期から北陸地方の地域的な信仰対象として多くの人びとの宗教心をとらえていった白山信仰の発達と比べれば、より際だって理解されるであろう。海の世界の安穏への祈りと山の世界の霊威への畏れ、同じく福井県域にありながら、人びとのよせる宗教的対象の分岐はより明らかになってきたのであった。
 しかし、このような変化の基底には、公田の荒廃、連作にたえられない不安定な耕地の増加、開発が放棄された原野など、農村の景観は荒廃に帰しつつあったという事情がある。それとともに、住民が口分田耕作をめぐってとり結んできた村落秩序や生活文化そのものに、覆いようのない変化が現われはじめていたのである。そのような荒廃の収束と変化の行方を端的に示したのが、武士という新しい社会階層の出現であった。
 敦賀の豪族の婿となったが、都に出て摂関家に仕え、その身辺の武力として地歩をかためた藤原利仁は、その典型であった。しかし、かれの姿を語るいわゆる利仁将軍伝説は、慎重に検討される。それは、伝説について、利仁の実像に迫る剥偽の作業だけが重ねられたのではなく、伝説化された過程じしんに用いられた素材・系譜から時代に制約された作者の観念あるいは伝説のスタイルなどにまで及ぶ。その結果、伝説に語られる利仁の越前における勢力や活動の内容が事実として確認されるのは、かれの孫や曾孫と称した者たちの世代の十世紀後半から十一世紀前半のことで、都では、いわゆる摂関政治の全盛期であった。そして、かれら利仁の子孫たちは、都で武士としての地歩をかためていった一方では、越前との関係を保ち在地での農業経営を確立した。そして、やがて在地の新興勢力として斎藤氏と号するようになり、坂井郡の伝統的名族であった三国氏などを圧倒していったのであった。ただし、かれらが利仁の子孫としての斎藤氏を称したのは、利仁の母が出た坂井郡の秦氏のうちから転身したものであった可能性ものこるという。この斎藤氏の流れが、疋田系斎藤氏と河合系斎藤氏で、前者は福井平野の東北隅にあたる竹田川中流域を、後者は九頭竜川と日野川の合流点北部を、それぞれの本拠として、勢力を在地に植えつけていった。そして、これら斎藤氏のもとで勧農をすすめ、土地と住民に対して支配力を強めたもののうちから、やがて十一世紀後半には在地領主とよばれる新しい支配階層も成長していったのである。
 ともあれ、地域社会のこのような動向に対応しようとすれば、都の摂関政治権力の地方支配の在り方も変わらざるをえなかった。すなわち、在地にあらわれた土地の新しい領有や経営あるいは耕作農民の新しい村落秩序に対応して、地方行政の単位そのものからして、従来からの郡郷制は、郡・郷・院・別名(保・名・別符・郷・村などの呼称があった)単位に改編されていった。若狭国では郷が継承されたものが多かったが、荘・保・名・浦など多様に細分化されたのが特徴であった。これに対して越前国では、郷が多く遺存したのは国府がおかれた南仲条郡とそれに隣接する丹生北郡であったが、そのほかの地域では郡の分割とともに、郷はほとんど分郡のうちに吸収され、保とともに、荘園と区別される公領の形成の前提となった。そして、国衙による徴税体系も、新しい公田官物率法へと変えられていった。
 その過程は、同時に、福井県域のなかで荘園とされるところが増えていった過程でもあった。越前国では、いち早く今立郡に摂関家領として方上荘が十世紀中ごろまでにはすでに成立していたが、むしろ十一世紀末から以後に荘園とされたものが多かった。上皇や女院の御願寺を中心とする皇室領が多く、摂関家領の荘園がこれについだ。これに対して若狭国では、十二世紀の院政期に入ってから荘園化がすすんだが、それらの荘園は延暦寺・日吉社の山門勢力を領主としたものが多かった。
 若狭国と越前国とでは、地方行政制度の改編や荘園化の進行に相対的な違いがみられるものの、いずれにせよそれらは、地域の社会的変化そのもののうえに生じた中世的な特徴の萌しであった。それらが、より成熟しながら展開した過程の考察は、すでに『通史編』2の分担するところとなる。この巻の論述は、そこにひきつがれるわけである。



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