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通史編序説
  産業・交通と都市
    三 港市の発達
      三国
 三国湊は興福寺兼春日社領の坪江荘に属して、河口荘・坪江荘の貢納物をはじめとして、越前各地の荘園貢納物は九頭竜・日野・足羽の三河川の水運により三国湊に集まり、海路敦賀津に廻送されて畿内の領主へ届けられた。鎌倉時代、ここに出入りする船舶の貨物に升米を課徴することが行われている。近世においても物資の集散が盛んであり、福井藩の保護もあり、有力な廻船業者も輩出した。西廻り航路が発達しても、敦賀などとは事情を異にして、かえって活況を呈するほどであった。
 三国湊は嶺北の関門として物資の集散地として賑ったが、北陸線が明治二十九年に福井・森田まで、翌年森田・小松(石川県)間が開通し、このころより衰退に向かうことになった。



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