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通史編序説
  産業・交通と都市
    三 港市の発達
      敦賀
 高句麗使の渡来によって、ヤマト朝廷は六世紀末ころより越の地に注意を向けるようになった。八世紀はじめに角鹿を敦賀と改めることになったが、このころ渤海国が成立して、敦賀の対外関係の地位はさらに重要性を加えた。渤海使の頻繁な敦賀への来航があり、渤海文化・唐文化の流入もみられたが、これらを背景としてこの時期に気比神宮の神威もいよいよ揚がり、国家的祭祀の対象ともなったことが推測されよう。こうした情勢のなかに、平安朝のはじめ外客接待のため松原客館がこの地に設置された。北宋興って宋商の渡来が盛んになるが、敦賀への入港も少なくない。鎌倉時代には敦賀津に出入りする船舶に、升米・勝載料などとよぶ関税を課し、畿内の寺社の造営・修造のため、しきりに寄進された。中世末期には蝦夷地との海運も起こっており、廻船業者として近世に続く豪商の名も現われてくる。寛永年間(一六二四〜四四)加賀藩の蔵米の大坂廻送に利用された西廻り航路が、十七世紀後半に整備され発展して敦賀・小浜に大きな影響を与えた。
写真7 昭和8年の敦賀港

写真7 昭和8年の敦賀港

 明治十七年(一八八四)四月、長浜・敦賀間に鉄道が開通し、敦賀港は海陸の物流基地として急速に発展した。明治後期より外国貿易もはじまり、日露戦争後は敦賀・ウラジオストク間の交通も活発化し、第一次大戦後は貿易額も増大したが、ロシア革命により対露貿易は衰退した。しかし、清津との航路が開かれ朝鮮との物資取引は盛んとなった。大正末より昭和はじめには不況の波が押し寄せたが、対露貿易の再開、対満州貿易が活発となるなど、日本と満州・朝鮮をつなぐ重要港となった。これが第二次大戦前までの概況である。



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