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通史編序説
  産業・交通と都市
    二 交通
      陸路
 古代から近江より越前に赴く道は、湖北の海津より山中を通る海津道と、塩津より深坂を越える塩津道があった。海津道と塩津道は追分で合流して、愛発関を経て敦賀に至る。愛発関は古代三関の一で、その所在地については諸説があるが、延暦八年(七八九)廃止された。なお、海津道はのちに西近江路また七里半街道とよばれた。
 松原駅(敦賀市)から国府へ至る道は、奈良時代には海岸の杉津を経て山中峠を越えた。新保(敦賀市)より鹿蒜(今庄町)に至る木ノ芽峠の道は、天長七年(八三〇)に開かれたとする説がある。『延喜式』には越前国内の駅名と駅馬数を記して、松原八疋、鹿蒜および次の駅以下六駅各五疋とある。なお、西近江路は七里半街道より道ノ口を通り、木ノ芽峠を越えて今庄駅に至る路をよんでいる。
 柴田勝家は琵琶湖の東岸を北上して、椿坂峠を経て栃ノ木峠を越える東近江路を重視したといわれる。これが北陸街道で、もとよりそれ以前かなり古くから利用されていた。結
城秀康が越前に入封すると、この道路は整備されて、板取宿より細呂木宿まで一五駅を数えたが、すべて福井藩領地でその支配下にあった。府中駅から分岐して日本海岸河野浦を結ぶ西街道にも、一五駅とともに伝馬が備えられた。そして敦賀との間の海路が盛んに用いられた。
 『延喜式』によると、若狭へは松原駅より西方へ国境を越えて弥美駅(美浜町)を経て国府(小浜市)へ達する。小浜から水坂峠(滋賀県今津町)を越えて今津に至る若狭街道は九里半街道ともいう。この街道筋は古くより使用され、調などを琵琶湖畔勝野津(高島町)へ出している。九里半街道は中世以来京・近江と若狭の通商の路としてあらわれる。また、この街道の保坂から朽木谷を経て京大原に至る道は京と若狭を結ぶ最短路であった。



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