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通史編序説
  産業・交通と都市
    二 交通
      海路
 鎌倉時代には、年貢米などを運送するほか、貨物を積んで行販する廻船の運航が日本海側でも発達してきたようである。鎌倉中期ころより院庁などから、寺社の造営・修造料所として港湾河津の関所を寄進することが行われてきた。関所で船舶より徴収する関料をもって寺社の造営・修造料にあてたが、関料としては升米とよぶ場合が多く、積載米一石につき一升の割合で徴収する意味である。敦賀津では永仁年間(一二九三〜九八)、伏見天皇の代に祇園社修造料として六か年を限り寄進されたのをはじめ、しばしば寺社の修造・造営料として寄進されている。三国湊においても、十三世紀末ころ足羽神宮寺の修造料としてであろうか、勧進聖が志積浦(小浜市)の廻船より関料米六石を課徴したりしている。嘉元四年(一三〇六)に越中の放生津所属と思われるが、関東御免の津軽船二〇艘の内の随一の大船が、鮭以下の貨物を積んで崎浦(三国町)に碇泊したのを、三か浦(崎・梶・安島)の預所・刀らが住人とともに漂到船といって没収したという。津軽船は津軽地方へ往返した廻船であろうか。多烏の秦氏の文永九年(一二七二)鎌倉幕府免許、つまり関東御免の「国々津泊関々」煩なく通過すべきを令した旗章は著名であるが、多烏・志積など浦うらの所有の廻船が、西は出雲、東北は三国湊に往返したことは史料にみえ、実はさらに遠く広く海路が開けていたと思われる。越前・若狭と蝦夷地松前方面との海運は中世末にはすでに開かれており、近世初期には敦賀・小浜の廻船業者の秋田・南部など東北地方との間の貨物運送取引は甚だ盛んであった。



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