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通史編序説
  産業・交通と都市
    一 産業・特産物
      伝統産業
 特殊な伝統産業として、府中(武生市)の打刃物、五箇(今立町)の奉書・鳥の子、若狭の桐油について述べよう。 府中の打刃物については、南北朝期に京の刀工が府中へ来て片刃鎌を製作したのが起源と伝える。近世中期には鍛冶屋が二七軒あり、やがて仲間を組織し、問屋も発達し、越前鎌の販路を全国的に広めた。寛政九年(一七九七)には仲間は七二軒となり、庄屋・年行事・惣代を定めて事務を管理し、問屋との交渉にもあたった。安政六年(一八五九)福井藩は物産惣会所を設立し、府中に製産役所をおき打刃物を藩の直扱いとし、西日本へも販路を拡張した。越前鎌はじめ、包丁その他の刃物は武生市の特産として現在に及んでいる。
 近世、越前の奉書・鳥の子は和紙中の名紙として世の高名を博していた。鳥の子類は敦賀、府中・大虫村(武生市)でも産したが、五箇産が量質ともにすぐれていた。室町時代中期ごろより、鳥の子・薄様・打曇などの鳥の子類は越前の特産として都にも知られ、奉書類が記録にみえるのは少し遅れる。近世になって鳥の子・五色奉書は福井藩の許可なしには漉くことを禁ずる留紙とされたが、奉書類には誂物・商物の別があった。誂物は幕府・福井藩の御用紙をはじめ、諸家・諸寺社からの注文により漉いた紙、商物は江戸・上方をはじめ国の内外に販売した紙である。
写真6 明治期の製糸場

写真6 明治期の製糸場

 若狭は近世以来日本において桐油の主産地であった。桐油は油桐の種子を絞って製油し、傷薬や灯油に用いられ、桐油紙製造に使われて油がっぱの塗料となった。近江の菅浦(滋賀県西浅井町)では、十六世紀中頃に油桐栽培を推測させる記録があるが、若狭では、承応二年(一六五三)に小浜藩により油桐の植栽が奨励されたことから、常神半島・内外海半島など海岸部の温暖な地域を中心に栽培が広まったとみられる。油実は小浜に集荷されて桐油に製せられた。近世中期ころまでは桐油は江戸へも送られたが、やがて大坂・大津へのみ輸送し、美濃・尾張や湖東の商人は大津へ来て購入し、ついで小浜へ出向いて取引きするようになったという。山陰地方や越前よりも油桐の実は小浜に集められ桐油を絞った。越前では、敦賀湾にのぞむ東浦から丹生山地西麓一帯にかけての地域などで油桐の栽培がみられた。



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