太閤検地は豊臣秀吉が明智光秀を討った直後の天正十年(一五八二)七月より着手し、秀吉没年の慶長三年(一五九八)まで行われたが、近世の土地制度・農民支配体制の基礎をつくった大事業であった。越前では検地実施の期間として、慶長三年五月より七月までの日付が検地帳に記されている。秀吉に近侍して五奉行の一人でもあった長束正家が総奉行となり、奉行として伊東丹後守・速水甲斐守・服部土佐守ら十数人が知られる。検地の結果の総石高は、結城秀康入封当時の封高六八万石に近いとされる。若狭では天正十六年浅野長政が領主のとき実施されたが、検地による総石高は八万五〇〇〇石の大数を窺知できるであろう。