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通史編序説
  政治・社会
     二 社会の構造・制度
      諸荘園の成立
 平安末期より鎌倉時代にかけて、畿内に近い越前・若狭においては、院領・公家領・寺社領の荘園が成立し、とくに越前では多数かつ広大な荘園が設置された。代表的なものに興福寺兼春日社領の河口・坪江荘があり、九頭竜川下流域、その支流竹田川沿いの肥沃な平野を中心とする大荘園である。河口荘は康和二年(一一〇〇)白河上皇より寄進せられ、坪江荘は正応元年(一二八八)後深草上皇よりの寄進にて、坪江荘内には梶・崎・安島の三か浦や三国湊がある。南北朝ころより本所への年貢供料の納付が欠怠するようになり、在地武士の代官請負制が広く行われてきて年貢の押領も甚だしくなり、やがて朝倉氏が戦国大名化するにつれて壊滅に向かうこととなる。もとよりこれは他の諸荘園にも共通した経過であった。
 若狭で知られた荘園として太良荘があり、観喜寿院より延応二年(一二四〇)東寺に寄進された。若狭は得宗分国といわれたが、鎌倉末期より南北朝にかけて年貢・公事の欠怠著しいものがあり、一色氏に代わって守護となった武田氏の、これも戦国大名化による領国支配の進展につれて、太良荘も国内の他の荘園とともに崩壊の途をたどることになる。



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