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通史編序説
  政治・社会
    一 政治の推移
      藩体制
 関ケ原の戦いのあと、結城秀康は越前一国六八万石の領主として入国する。徳川氏の藩屏とし、畿内に近くまた加賀前田氏を控制することにもなろう。若狭一国八万五〇〇〇石は京極高次が領して雲浜の地(小浜市)に築城する。秀康のあとを継いだ忠直は元和九年(一六二三)隠居し豊後に配流され、秀康の次男忠昌が翌寛永元年(一六二四)に越前のうち五〇万石を継ぎ領した。秀康の三男直政は寛永十五年雲州松江一八万石の藩主となり、五男直基は上州前橋一七万石の藩祖となり、六男直良の子直明は播州明石八万石の藩主となった。また忠直嫡子仙千代(光長)は越後高田に封じられたが、その養嗣子の長炬は作州津山一〇万石の藩主となった。秀康の後裔は諸国に親藩を形成している。京極高次没後、子忠高継ぎ、寛永元年敦賀郡二万一五〇〇石を加増されたが、寛永十一年雲州松江へ転じ、小浜には譜代中の譜代ともいうべき酒井忠勝が入封した。
写真4 丸岡城

写真4 丸岡城

 福井藩は忠昌の三男昌親が五代藩主となり、二年で兄昌勝の息綱昌に譲ったが、貞享三年(一六八六)、綱昌は蟄居を命ぜられ領地を没収せられ、昌親が二五万石を与えられて半知となった。秀康の越前入封以来、三代忠昌を除くと六代綱昌の改易まで藩主は終わりを全うしていない。幕府は幕藩体制の確立を志向して、諸大名の廃絶改易など厳しい統制策をとり、親藩といえども容赦しなかったのである。江戸中期以降は越前・若狭に一〇家の大名領があり、越前に幕府領一二万石、四家の旗本領があった。越前には丸岡藩五万石に有馬氏元禄八年(一六九五)入封、鯖江藩五万石に間部氏享保五年(一七二〇)入封、大野藩四万石に土井氏天和二年(一六八二)入封、勝山藩二万二七七七石余に小笠原氏元禄四年入封、越前以外に本拠のある諸藩として、越前国内に三河西尾藩二万八〇〇〇石余、美濃郡上藩二万三〇〇〇石の領地をもち、小浜藩および同藩主より安房加知山藩に分知した敦賀郡内の領地がある。なお正保二年(一六四五)、福井藩主忠昌の遺領五万石を二男昌勝に、二万五〇〇〇石を三男昌親に分封して成立した松岡・吉江両藩は、のち廃せられて、領地は本藩に継がれた。福井藩以外の越前の諸藩はみな譜代で、丸岡藩有馬氏のごとき、由緒としては外様であるが正徳元年(一七一一)に譜代に列したという。なお、小浜藩主忠隆の弟忠稠は、天和二年敦賀郡と近江高島郡で計一万石を分封されて鞠山藩(敦賀市)が成立した。



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