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通史編序説
  政治・社会
    一 政治の推移
      南北朝期の越前・若狭
 後醍醐天皇は各地に皇子を派遣して拠点をつくり、足利尊氏の勢力を抑えようとした。越前もそれに選ばれて、延元元年(一三三六)恒良・尊良両親王は新田義貞とともに敦賀へ下って金ケ崎城に入った。翌年金ケ崎城は落ち、義貞は斯波高経と戦って戦死した。義貞の弟脇屋義助は南朝方の主将として高経の軍と戦ったが、越前はやがて高経方の支配に入る。高経は越前守護となるが、幕府に背き失脚する。しかしその子義将は復帰して管領ともなり、斯波氏は三管領家中でも足利一門として家格は高く、越前守護をも世襲するところとなった。
 若狭は京都に近く諸事速やかに波及影響すること多く、南北朝期には守護の交替がしきりに行われた。斯波高経が守護となったこともあるが、そのあと足利氏一門の一色範光が守護となった。一色氏は国人層の勢力を抑制することに努め、支配力を固めていった。



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