22 銃後のくらし(2) | |
![]() ▲「伝染病予防」の貼り紙 福井県立博物館蔵 |
![]() ![]() 今立町 西庄境区蔵 |
◆「健康福井」 | |
大正期から福井県下の結核死亡率は、全国でも高位にあったが、皮肉にも本格的な対策がとられたのは、戦時体制に入ってからであった。 1936年(昭和11)、「健康福井」をスローガンとして設置された県保健衛生対策委員会の答申で、はじめて医療施設の拡充、住宅・栄養などの生活改善をふくめた対策が示された。県内に結核専門の医療機関や保健所が整備されるのもこれ以降であり、県下の小学生を対象としたツベルクリン反応検査をはじめとして、乳幼児や妊産婦保護も試みられていった。しかし、それはあくまで、戦争遂行のための強健な身体の育成を主眼においたものであった。 |
|
![]() 今庄小学校裁縫室で、国防婦人会・女子 青年団などによって行われた。黒板の文 字から慰問袋にはドロップやたばこ・便せ ん・ちり紙などが入れられたことがわか る。あわせてた家族の写真が入れられる こともあった。 今庄町 島崎文治氏蔵 |
![]() |
![]() 戦時体制下の成人労働力の不足から、 数え年16歳から19歳の少年による満州 移民が進められた。福井県からは1938 年(明和13)の最初の政府割当700人 (のちに500人)に対して315人が満州に わたり、43年までに1600人あまりが送り 出された。 敦賀市 奥井光子氏蔵 |
![]() |