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第七章 世紀転換期を迎える福井県
  栗田県政の実績と課題
 中川県政を継承した栗田は、当面、中川知事のもとで自らも副知事として策定に加わった「第四次福井県長期構想」に掲げられた諸施策を継続した。一九八三年(昭和五八)一〇月に策定されたこの構想は、八一年に置県一〇〇年を迎えたことを機会に「活力とうるおいのある文化のふるさとづくり」をスローガンとする構想(基準年次八〇年度、目標年次九〇年度)であった。この置県一〇〇年にあたる八一年度には県庁庁舎が新築されたが、その前後には、県立美術館(福井市、七七年度開館)、県史編さん事業(七八年度より着手)、県立図書館の新築移転(福井市、八一年度開館)、朝倉氏遺跡資料館(福井市、八一年度開館)、県埋蔵文化財調査センター(福井市、八一年度開設)、県立若狭歴史民俗資料館(小浜市、八二年度開館)、県文化振興事業団(八二年度設立)、県生涯学習センター(八二年度開設)、県立博物館(福井市、八四年度開館)などの文化事業が実施された。「構想」では、こうした「ふるさとづくり」の精神を支柱として、(1)豊かな生活の基盤づくり、(2)未来をひらく人づくり、(3)健康でうるおいのある社会づくり、(4)活力ある産業づくり、をめざしたさまざまな事業が計画された。栗田新県政のもとでも文化施設の建設は継続され、県立武道館(福井市、八九年度開館)、県立図書館若狭分館(小浜市、八九年度開館)、福井県生活学習館「ユー・アイふくい」(福井市、九五年度開館)、県立音楽堂(福井市、九七年度開館予定)などの諸事業が実施されている。
 八八年一二月、あらたに西暦二〇〇〇年を目標年次とする「福井県新長期構想 福井21世紀へのビジョン」が策定された。この新長期構想では、「美しくたくましい福井を」を基本理念とし、「生活満足度日本一の人口一〇〇万人県・福井」を基本目標に、(1)たくましい産業の育成、(2)魅力ある人材の養成、(3)健康で生きがいのある福祉社会の実現、(4)快適な社会基盤の形成、の四つの柱により具体的な施策の推進をはかるとされた。
 簡単に現在までのそれぞれの実績をふり返ってみると、(1)については、ハイテク化の進展に対応した技術開発・技術指導の拠点施設として福井県工業技術センターが九二年度に福井市に完成し、また丸岡町の情報産業集積団地「ソフトパークふくい」の中核施設として九四年度に県産業情報センターが開設となった。嶺南地方では八八年七月、若狭中核工業団地の事業実施等に関する基本協定等が地域整備公団、県、県土地開発公社および上中町の間で調印され、九一年、「若狭テクノバレー」と称される同工業団地に最初の誘致企業として日本電気硝子が進出した。農業についてもバイオテクノロジーなど新技術の導入による「福井型農業」の推進がはかられた。
 (2)では、九二年四月、経済学部・生物資源学部の二学部からなる福井県立大学が福井キャンパス(松岡町)および小浜キャンパスに開学となり、看護短期大学部が福井キャンパスへ移転し、また小浜キャンパスには生物資源学部海洋生物資源学科が開設となった。一方、八八年三月には、男女共同参加型社会をめざして、「二一世紀をめざすふくい女性プラン」が策定された。
 (3)では、八九年に財団法人「福井県すこやか長寿財団」が設立され、高齢者の生きがいと健康づくりのために県・市町村一体となった施策が推進された。また県民の生涯を通じた健康づくり、生きがいづくりの総合的拠点として清水町に「ふくい健康の森」の整備が進められ、九四年度より一部施設がオープンした。
 (4)については、自然保護思想の普及・啓発を目的とした福井県自然保護センター(大野市、九〇年開館)のような生活環境の保全事業や、過疎地域の活性化の推進をはかる「歴史と文化のむらおこし事業」の創設、「無雪モデルタウン整備事業」や「ふくいスノーフェスティバル」などの克雪、雪の利活用事業などの地域振興事業が実施されているが、この「社会基盤の形成」に関しては、中川時代から積み残しになっている県政の懸案事項も多い。
 新幹線は、八七年一月の閣議決定により建設凍結が解除され、八八年八月には整備新幹線の着工順位が決定し、三線五区間の優先着工が決まった。北陸新幹線については高崎・軽井沢間と高岡・金沢間の優先着工となり、小松・南越(武生市)間についてはかろうじて着工準備作業所設置を確認するにとどまった。九四年一二月には、村山三党連立政権のもとで整備新幹線の着工計画の見直しが検討され、小松・南越間について環境影響評価の完了後に工事実施計画の認可申請を行うこと、南越・敦賀間のルートを公表して調査することが政府・与党合意として示された。しかし、敦賀以西については、七三年の鉄道建設審議会による整備計画答申では若狭回りで大阪へ直結するいわゆる「若狭ルート」が計画されているものの、まだ正式なルートの決定にいたっていない。
 高規格幹線道路建設促進事業は、近畿自動車道敦賀線については八九年(平成元)一月、敦賀・舞鶴東間について基本計画が策定され、九三年一一月には舞鶴東・小浜市岡津間の施行命令が建設大臣より出された。中部縦貫自動車道については、八九年八月に永平寺・大野間、和泉・白鳥間が、九三年七月に福井・永平寺間が整備計画区間となり九三年度から福井・上志比間が国の直轄事業区間に認められた。
 福井空港の拡張ジェット化計画が発表されたのは八五年二月であった。これに前後して坂井町、春江町の地権者を中心に福井空港拡張反対同盟が結成され反対運動が展開されたが、他方八六年一月には県議会が県経団連などによる福井空港ジェット化促進の陳情を採択し、一一月には国の第五次空港整備五か年計画に福井空港拡張計画が組み込まれた。県による地元振興策の提示もあり、坂井・春江両町の町長・町議会が八八年にジェット化促進陳情を受け入れ、九二年度の政府予算には実施設計調査費が計上された。しかし地元地権者の同意が得られないまま予算は執行されず、九五年六月には県は政府への予算要求を見送るとともに、一一月、知事が「計画の見直しもあり得る」との見解を表明、翌一二月には県から反対同盟に対し、正式に対話の申入れが行われた。
 足羽川ダムは、九二年一月に建設省の基本計画がまとめられ、知事も地元美山町に協力要請を行ったが、水没予定地の住民の反対が強く、また水没予定地の山林の共有地主を全国で募る運動も展開された。九四年度政府予算に建設費四億円が計上されたが、九五年七月、建設省は、同ダムを含む全国一一か所のダム建設難航地について、知事・地元首長・学識経験者らによる審議委員会を設置して計画が適正かどうか客観的な評価を求めることを決め、事態は流動的になっている。
 最後に、原子力発電については、八六年四月のチェルノブイリ事故以降、世界的に原電建設の動きが停滞するなかで、九一年二月、関西電力美浜二号の蒸気発生器細管破断事故が発生し、関電は七〇年代に建設された加圧水型炉の蒸気発生器の交換・改修を決定した。他方、初期に建設された原電の減価償却が進むにしたがって、原電の廃炉問題がおこるとともに、固定資産税の減少に対して地元自治体では増設を求める声が強まった。敦賀市では九三年三月、市議会が原電増設陳情を採択し、同年一二月には高木孝一市長も増設に同意し、日本原電が正式に敦賀三・四号の建設を表明した。こうした動きに対して反対の声も強く、同年四月には、周辺市町村七議会が県、県議会、日本原電に対して「増設反対」「慎重対処」などの要望書を提出した。同年一一月には敦賀市で住民投票条例制定の請求が行われたが、市議会はこれを否決した。九四年に入り、知事の判断に注目が集まり、原発反対県民会議などは翌年一月までに二一万三〇〇〇人をこえる増設反対署名を県に提出した。九五年一月の阪神・淡路大震災の発生は、原電の安全性に対する県民の不安を醸成し、増設容認の動きに水をさすことになった。四月の地方選を前にして県議会のなかにも増設反対を唱える議員がふえ、また敦賀市長選では慎重な対応を主張する河瀬一治が前職を破り、当選した。
 一方、動燃の実施する国家プロジェクトである「ふげん」「もんじゅ」の両発電所についても事態は大きく変わった。九五年七月、電気事業連合会が青森県大間町に新型転換炉実証炉の建設を計画していた電源開発に経済性がないことを理由に見直しを申し入れ、翌八月、原子力委員会は計画中止を決定した。これにより新型転換炉原型炉である「ふげん」の存在理由はなくなり、動燃では一二月、「ふげん」の一〇年後の廃炉を視野にいれた研究の継続を県、市に提示した。「もんじゅ」は九五年二月より試験運転を開始したが、水・蒸気系の事故があいつぎ、八月にようやく初発電を行ったものの、一二月八日、懸念されていたナトリウム火災事故が発生、さらに動燃が現場のビデオ映像を故意に隠したことから、知事もかつてないきびしい抗議の姿勢を示した。



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