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第七章 世紀転換期を迎える福井県
  新しい政治の動き
 一九八七年(昭和六二)四月、初当選した栗田幸雄知事は、中川平太夫と同様に共産党をのぞくオール与党体制のもとにその後二回の選挙でも安定した強みをみせ、現在三期目を迎えている。
 一方、国政レベルでは、国民の所得水準の全般的向上と価値観の多様化を背景に、いわゆる五五年体制が崩壊し、新世代の政治家の進出もめだつようになったが、こうした動きは福井県の政界のなかでも生じてきた。
 まず労働界では、石油危機以来の労使協調体制の確立と労働組合の組織率低下を背景に、労働戦線統一の動きが急速に進展し、八七年一一月には旧同盟、総評加盟民間一七単産などにより全日本民間労働組合連合会(旧「連合」)が発足、八九年(平成元)一一月には総評が解散し、官公労組と旧「連合」加盟の民間労組による日本労働組合総連合会(新「連合」)が結成された。福井県では八九年二月に連合福井が発足した。同年一二月の新「連合」福井の結成にともない、九〇年一月には県労評が三九年にわたる歴史を閉じた。連合は野党連合政権の橋渡し的役割をめざして八九年七月の参議院議員選挙に無所属統一候補を擁立し、リクルート批判、消費税廃止の追い風をうけて候補擁立一二選挙区中一一選挙区で当選者を出した。福井県選挙区でも古川太三郎が現職の山内一郎を破り、初当選を果たした。しかし政界の変動のなかで連合の政治的結集力は伸びず、その後二度にわたり参議院福井地方区に候補を擁立したが、いずれも自民党新人に敗れ、古川も再選はならなかった。
 衆議院では、福田一が引退を表明した直後の九〇年二月の選挙に三、四〇歳代の新人候補が六人出馬し、そのうち自民党の山本拓が、戦後の県議会議員出身者としては社会党の田畑政一郎についで二人目の当選を果たした。九二年一月、長年自民党県連会長を務めてきた参議院議員熊谷太三郎が死去したことも新旧交代期を印象づけるできごとであった(後任会長は平泉渉)。このころから中央政界の変動が急速となり、九二年五月には細川護煕が日本新党を結成、宮沢喜一内閣不信任案成立にさいして自民党が分裂し新生党が結成された。その直後の九三年七月の総選挙では、前回落選の笹木竜三が民社党、日本新党、社会民主連合の推せんをうけて当選した。選挙後、細川を首班とする非自民連立内閣が発足し、そのもとで政治改革四法が成立、衆議院議員選挙に小選挙区比例代表並立制が導入されることが決まり、九四年一一月、区割り法案の成立により全県一区の福井県は三小選挙区に分かれることが決まった。この間、政局はさらに流動化し、非自民連立政権は九四年四月に新生党の羽田孜が首相となると社会党が政権を離脱し、同年六月、社会党の村山富市を首班とする自民・社会・新党さきがけの三党連立内閣が成立、一方新生党、公明党、日本新党、民社党など共産党をのぞく野党が合同して新進党が発足し、福井県の選出議員のうち山本、笹木が同党に参加した。



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