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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    六 観光とレジャー
      観光ブームの到来と地域開発
 高度経済成長にともなう所得水準の上昇と、これを基盤とする消費の拡大と大衆化は、このころから進展しはじめる余暇の増大ともかかわって観光旅行者の増加をもたらした。のみならず、ストレスの多い都市での生活は自然環境の利用を促進させる一因ともなり、自家用車の爆発的普及とも関連しつつ、観光を量的にも質的にも変化させた。観光・レジャーブームの到来である。
 おりしもこの時期には、一九六四年(昭和三九)の東京オリンピック、六八年の福井国体、七〇年の大阪万国博覧会などのビッグイベントが開催されたことから、県もこれらを契機としていっそうの観光客誘致の施策を進めた。
 一九五〇年代「日本一の悪道路」と呼ばれるほど整備の遅れた県下の道路網は、六八年の福井国体開催にむけ、六四年には国道八号が、また六七年には嶺南地方を東西に横断する国道二七号が改良・舗装され、越前海岸を南北に縦断する同三〇五号も七〇年には改良工事を終えた(第五章第二節一)。さらに鉄道も、六一年北陸トンネルが貫通、翌六二年六月には北陸線の複線・電化による営業が開始され交通網の整備が進められた。六六年には福井空港も開港した。若狭湾国定公園内には、三方五湖を周遊する観光道路として六八年五月「レインボーライン」が、また七二年七月には内外海半島の久須夜ケ岳にいたる「エンゼルライン」が開通している。七〇年四月には福井県観光開発公社が設立され、海岸道路沿いのレストハウス建設や、自然遊歩道の整備を進めた。観光宣伝も県観光連盟や各観光協会を中心に積極的に進められ、越前町の「水仙娘」などが東京・大阪方面など県外への出向宣伝を行った(県観光連盟資料)。
写真113 エンゼルライン

写真113 エンゼルライン

 七二年三月の『福井県長期構想』では、余暇の利用形態が従来の物見遊山的な「見る観光」から体験・活動といった「する観光」へ変化し、今後も観光・レクリェーションへの需要が飛躍的に増大するとの見通しから、県内および隣接県との間の周遊性・滞留性をもたせた広域観光ルートの設定、観光・レクリェーション地帯の開発整備、歴史的環境と各種産業の利用などがうたわれた。これにより、嶺南では七一年一月に厚生省の指定をうけた三方海中公園(三方町世久見湾)や和田港マリーナ(高浜町)など「若狭湾海洋性レクリェーションリゾート構想」が進められ、奥越でも法恩寺山・九頭竜ダム周辺を中心とする総合レクリェーション地域の開発が計画された。その他、青少年旅行村・越前の里・若狭の里などの施設整備も進められた。
 七一年には宮崎村に「越前陶芸村陶芸館」が完成、七四年今立町に「和紙の里会館」が完成するなど、市町村においても地域産業を生かした観光施設が整備されはじめ、三方町では七〇年代にナシ園や梅園などの「観光農園」を整備した(『三方町史』)。また私企業による開発もふえ、たとえば丸紅飯田・京福電鉄・広撚など県内外の資本により六四年四月、三国町滝谷に完成をみた「東尋坊温泉ファミリーランド」や、七三年開場の「みどりの広場・芝政」、京阪電鉄出資の若狭湾観光による「若狭フィッシャーマンズ・ワーフ」などがあげられる。
 一九八〇年代は、竹下登首相が提唱した「ふるさと創生」や八七年制定の「総合保養地域整備法」(リゾート法)が契機となり、日本全国で「町おこし、村おこし」がブームとなった。「バブル経済」進展のただ中にあって、「リゾート」は地域活性化のキーワードとして日本を席捲したのである。八八年の時点で四七都道府県七五地域からリゾート開発の基本構想があがっていたが、福井県の「奥越高原リゾート構想」は九〇年(平成二)五月に国の承認をうけた。このなかの五つの重点整備地区の一つとして「法恩寺山リゾート」があり、福井県・勝山市・東急不動産・熊谷組などの出資による、第三セクターの法恩寺山リゾート開発株式会社により、スキー場・ゴルフ場を中心とした長期滞在型のリゾートがめざされた(『勝山奥山のあゆみ 芳野原開拓』)。
写真114 スキージャム勝山

写真114 スキージャム勝山

 やがて、リゾートは自然破壊や乱開発、ゴルフ場の農薬問題などその否定的議論もなされ、九〇年末ころからの「バブル経済」の崩壊が、大規模・豪華さを競った巨額な投資資金の回収を滞らせるにおよび、九二年段階で重点整備地区の指定をうけた三五道府県のうち、二三の道県で計画の中止や規模縮小の影響が出た(北川宗忠『観光入門』、『朝日新聞』92・5・25)。このようななか、九三年一二月「スキージャム勝山」がオープンしたが、九四年のシーズン中には三五万六〇〇〇人が訪れ、奥越七か所のスキー場では前年の一・五倍の入込みがあるなど、その波及効果は大きかった(『福井新聞』95・12・20)。
 近年、県内の自治体では前述のリゾート開発のほかに、「人希(ニンキー)の里公園整備事業」(上志比村)、「オタイコ・ヒルズ整備事業」(織田町)、「みずとみちアメニティ整備事業」(上中町)など、それぞれの特産品や文化的バックグランドを生かした地域づくりが、各省の補助金を得て推進されている(福井県市町村課『福井ふるさとづくり すがお35』)。また、「みくに文化未来館」(三国町)、「ハートピア春江」(春江町)など地域の中核的コンベンション施設の建設もあいつぎ、各種の大会や展示会、コンサートホールとして利用されている。武生・鯖江の両市にまたがり建設された「サンドーム福井」では、九五年一〇月に世界体操選手権大会がアジアではじめて開催され、のべ約一〇万人の来場者をみた。
 ここで、福井県への観光客の動向を概観しよう。図87で、観光客入込数(のべ数)を地域ごとに示した(『県統計書』)。総観光客数は六七年(昭和四二)に一〇〇〇万人をこえ、観光ブームの波にのり各地域とも順調に増加を続けたが、七三年秋の第一次石油危機から大きく減少傾向をみせる。のち回復基調となるが九〇年代当初からバブル崩壊の影響からふたたび減少に転じる(『福井県観光客数動態推計表』)。そうじて観光客の動向は、景気感受性が強いことや、スキー・海水浴など天候に左右されることも多く、またその地域のもつイメージも重要な要素となる。八一年の日本原電敦賀発電所の放射能漏れ事故が嶺南地方への観光客の減少を招いたことは、その一例であろう。しかしながら、福井・武生市の周辺地域や東尋坊・芦原温泉地域では順調な集客数ののびをみせ、海水浴客の利用に期するところの多い海岸地域の観光地は、対照的にそののびは小さい。
図87 県内地域別観光客入込数(1970〜93年)

図87 県内地域別観光客入込数(1970〜93年)




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