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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    四 石油危機下の工業と減量経営
      眼鏡枠工業
 全国の約八割のシェアを占めるといわれる鯖江市を中心とする福井県の眼鏡枠工業は、一九六〇年代末から急速に輸出を拡大し(図83)、七〇年代末には輸出が全生産高の三割前後を占めるようになった(『福井経済』78・11)。一九六八年(昭和四三)に福井県眼鏡協会が県眼鏡工業組合、県眼鏡卸商協同組合、県眼鏡光器輸出協同組合、県眼鏡工場団地協同組合の四組合を構成員とする任意団体として設立され(八二年七月社団法人化)、産地の調整、情報交換の強化をはかるとともに、JETRO(日本貿易振興会)の援助を得てアメリカ市場開拓に力を尽くした。六九年から四年間連続して全米眼鏡卸商協会展示会へ出展し、また七三年からはデンマーク、西ドイツ、フランスなどヨーロッパの展示会にも参加した。
図83 福井県の眼鏡・眼鏡枠の輸出(1970〜87年)

図83 福井県の眼鏡・眼鏡枠の輸出(1970〜87年)

 こうした産地自身の海外普及活動に加えて、七一年八月の「ニクソンショック」以降、眼鏡枠工業は、政府の実施する輸出関連中小企業救済策の福井県における主たる対象業種となったことも大きな意味をもっていた。七一年一二月の「国際経済調整措置法」により輸出関連信用保証措置や設備近代化資金等の返済猶予措置をうける産地に指定されたのを皮切りに、七三年には変動相場制移行にともなう輸出関連中小企業緊急融資制度の融資対象、七八年には円高対策として実施された中小企業為替変動対策緊急融資制度の融資対象となり、また七九年には「産地中小企業対策臨時措置法」の指定産地となり、産地中小企業振興ビジョンの策定を前提としてさまざまな助成・特例措置をうけることになった(『通商産業政策史』15)。
 輸出の仕向先はアメリカが過半を占めており、当初はサングラスが主流であったが、七六年よりアメリカが途上国製品に対して特恵関税を供与したことと円高の進行により、アメリカ市場および日本国内市場の低・中級品分野で韓国、台湾、香港などの急追をうけた。この結果、サングラスでは調光レンズや偏光レンズの使用、普通枠ではニッケル合金・チタン合金使用の高級品への移行がはかられ、輸出に占める普通枠の比率がサングラスを上回るとともに、ヨーロッパ市場、東南アジア市場など仕向先も世界各地に拡散していった。こうした眼鏡枠工業の発展にともなって産地の販売環境も大きく変わった。
 第一に、内需を中心に国内外の大手ブランドの進出が顕著になった。六九年五月のポラロイド社の進出を皮切りに、クラウン、セイコー、東レなどのトータル・ファッション志向の企業や、保谷、日本光学などの大手レンズメーカーとの提携による相手先ブランド品の生産が急速に拡大したのである。産地の有力企業では直販体制やオリジナルブランドの開発につとめるところもあったが、他方一九八〇年代に入ると国内外の有名DCブランドのライセンスの取得をめぐってし烈な競争が展開された。八〇年代末にはブランド数は三〇〇近くに達し、海外ブランドに重点をおく企業のなかには、年間ブランド費用が数千万円に達するといわれる企業も現われた(『福井経済』89・10)。輸出については、七〇年に県眼鏡光器輸出協同組合が福井県産眼鏡枠を「モンジュ」の統一商標で輸出することで認可をうけたもののあまり浸透せず、ノンブランド品が主流であった。しかし、八〇年代には西ドイツへの金属フレームを中心とする相手先ブランド品の輸出が急増する一方、県内大手企業のオリジナルブランド、DCブランド品のアメリカ、ヨーロッパへの直販体制も拡大した。
 第二に、国内の小売量販店による廉売システムの浸透と後発国の追上げにより出荷段階の価格引下げ圧力が強まった。このことは、コストのきびしい切詰めとともに、納期の縮小、納品単位の小ロット化を要請することとなり、高級化・ファッション化を進めて設備拡張をはかる大手企業と低・中級品を中心に労働集約的な生産を行う零細企業との間の企業間格差の拡大をもたらすことになった。



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