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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    三 合繊織物業の展開
      円高不況下の福井産地
 一九七五年(昭和五〇)に入ると、政府は不況対策に乗りだした。まず、一月に成立した「雇用保険法」の柱となった雇用調整給付金制度は、一時帰休、配転等による雇用調整を支援し、人員整理の緩和をねらうものであった。さらに二月、三月、六月、九月と四次にわたり発表された不況対策は、公共事業の促進、民間投資抑制措置の弾力的運用、中小企業金融の円滑化、住宅建設促進など、有効需要の創出を意図した景気刺激政策であった。また一二月には七五年度の「公債発行特例法」が公布・施行され、国債の大量発行時代の幕開けとなった。
 四月ころから内需が持ち直すとともに、中東向けを中心に輸出の伸びが顕著になった。ポリエステル加工糸織物は停滞していたが、ジョーゼットを中心とする強撚厚手織物に需要が殺到し、工賃も大幅に引き上げられた。準備部門でも、仮撚機の共同廃棄事業が実施されるかたわらで、強撚用のダブルツイスターの設置が進んだ。こうした輸出を中心とした回復により、七六年の福井産地の輸出比率は六割近くになったといわれる(『日刊繊維情報』77・11・10)。
 しかしながら、アメリカのインフレの昂進と日本の貿易黒字の急増により、七六年末に一ドル=二九〇円台であった円の対ドル相場は急激な円高に転じ、七八年一〇月三一日には一七五円五〇銭を記録するにいたった(図81)。円高は装置産業を中心に国際競争力の著しい低下を招き、七八年五月には造船・平炉などの構造不況業種の救済を目的とする「特定不況産業安定臨時措置法」が制定された。繊維産業でとくに被害が大きかったのは、織物よりもむしろ合繊原糸部門であった。すでに七六年のポリエステル・フィラメントの設備能力は、日本が日産六九二トンであるのに対し、台湾四九一トン、韓国二〇六・五トンとこの二国の合計が日本を上回っており、さらに両国の低賃金、ドルにリンクした為替の減価により、日本の合繊原糸は競争力を急速に喪失したのである(通産省『新しい繊維産業のあり方』)。原糸メーカーは七六年はじめから自主操短を再開していたが、七七年一〇月、通産省による勧告操短に切り替えられ、これは七九年三月まで継続された。
図81 円対ドル輸出為替相場(1976〜87年)

図81 円対ドル輸出為替相場(1976〜87年)

 これに対して織物産地では、原糸メーカーが産地への売込みに力を注いだことにも助けられて、ジョーゼットなどの差別化商品を先頭に、七八年からはタフタ・ポンジーなどの量産品でも工賃が急速に上昇した(図82)。円高の影響は懸念されたが、その打撃は比較的軽微であったのである。
図82 主要ポリエステル織物工賃(1976〜87年)

図82 主要ポリエステル織物工賃(1976〜87年)

 一方、第一次石油危機以降、織物産地では、ある程度織機の廃棄事業が進んだ。七四年度から七六年度に実施された「織機登録特例法」にもとづく織機の買上げと、七七年度から七九年度に実施された構造改善工業組合による共同廃棄事業がそれである。
 前者は、七三年に登録織機として認められた無籍織機台数の四分の一を買い上げるもので、買上げ資金には無籍織機の登録納付金があてられた。七四年度から四年間で全国一万八八八二台、うち福井産地三六八三台を買い上げる予定であったが、(1)買上げ価格が広幅織物一四万円と対米輸出規制のさいの買上げ価格よりかなり安かったこと、(2)中小企業振興事業団の融資による共同廃棄事業の実施への期待が大きかったこと、(3)買上げ処理の対象業者について無籍織機の保有者と非保有者との間で摩擦が生じたこと、などこの買上げは不評であった。またこれに関連して、七五年一〇月には無籍織機登録のさいの不正行為が発覚し、構造改善工組の現職理事が逮捕され、梯重宣理事長らが引責辞任するという事件も生じた。結局これは七六年度で打ち切られ、買上げの累計は全国では一万一八一三台、福井産地では三〇〇八台となった(『日刊繊維情報』74・10・5、11・1、12・7、75・6・11、10・8、11・7、77・5・25)。
 後者は、七七年度から三年間で既存の絹・化合繊織機設備の二割(福井産地では一万四五六二台)を廃棄する計画である。買上げ単価は広幅織機が六三万円で、買上げ資金の九五%を中小企業振興事業団から無利子融資をうけ、残りを参加組合が負担した。福井産地では、七七年度に絹・化合繊あわせて三五三六台の織機の廃棄が行われ、計画の達成が十分期待されたが、七八年度後半から受注が好転し織物工賃の上昇が生じると、廃棄希望者が激減し、七九年度の化合繊織機の廃棄は一二〇台にとどまった。結局福井産地の絹・化合繊織機の共同廃棄は三年間で五九〇八台、進捗率四〇・五%であった(『日刊繊維情報』77・8・28、10・7、78・3・30、11・2、80・2・8、『福井経済』81・1)。
 ところで、構造改善事業の期限切れにともない、七四年六月、「繊維工業構造改善臨時措置法」(新繊維法)が制定され、七九年六月を最終期限とする第二次構造改善事業がスタートした。過剰設備のスクラップ・アンド・ビルドを主眼とした第一次事業と異なり、今次の事業は異業種間グループ形成への助成を柱とするものであったが、県内の参加は七グループ(五六企業)と低調であった。さらに七九年度から期限を五年間延長し、第三次構造改善事業として事業が継続された(『福井経済』81・1)。
 なお、この間の七五年一二月三一日、福井人絹取引所が解散となり四〇年余の歴史の幕を閉じている。



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