目次へ  前ページへ  次ページへ


 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第二節 諸産業の展開
    三 合繊織物業の展開
      日米繊維交渉
 一九六八年(昭和四三)にGNP西側諸国第二位という経済大国となった日本は、工業製品輸出国として恒常的な貿易収支黒字を記録するにいたった。そして繊維や機械・鉄鋼・自動車などの中位技術製品のアメリカへの輸出が集中したため、経常収支の悪化の一途をたどるアメリカとの間に経済摩擦問題が発生した。さらに六八年の金プール制の廃止以降の国際通貨不安の深刻化、南北問題の解決策の一つとして提起された途上国工業製品に対する先進工業国の一方的特恵関税の供与問題など、六〇年代後半には、既存の国際経済秩序を大きく揺り動かす事態に日本は直面した。ここでは、七一年に決着をみた日米繊維摩擦問題と福井県の繊維産業の帰結について眺めてみよう。
 繊維貿易についてはすでに六二年一〇月の綿製品の国際貿易に関する長期取決め(LTA)の発効により、綿製品の管理貿易が世界的に実施されていたが、六〇年代なかばには毛製品・化合繊製品への規制拡大を求める動きがアメリカの繊維業界に広がっていた。ただし、アメリカの繊維市場における輸入のシェアは六一年で五・一%、六九年で八・五%と比率の上昇はみられるものの、七〇年代に問題となった鉄鋼、自動車等に比べると、深刻度はかなり低かった(『通商産業政策史』9)。
 これが日米間の政治問題となるきっかけは、六八年のアメリカ大統領選挙のさいに、共和党のニクソン候補が繊維工業地帯である南北カロライナ・ジョージアなどの南部諸州の支持を獲得するために、LTAを全繊維製品に拡大する旨の公約を行ったことである。ニクソンは、自由貿易の大枠を崩さずに輸出国側に自主規制を求めるというかたちで実質的な貿易規制を行う道を選んだ。すなわち、一方で下院に提出された輸入規制法案の成立を拒みつつ、日本側との政府間交渉で下院の動きを交渉手段として日本の自主的な輸出規制を迫るという、この後の日米貿易摩擦交渉の原型が示されたのである。これに対して日本の繊維業界は、七〇年一月、一九の繊維業界団体により日本繊維産業連盟を設立し、反対運動を展開した。また全繊同盟もこれと同一歩調をとった。日本政府は、原則的にGATTの多国間交渉に委ねることを主張し、暫定的に行う二国間交渉においても規制方式、基準年次、伸び率、GATT交渉への移行手続きなどについて、アメリカ政府と意見を異にした。しかしながら、六九年一一月の第一回佐藤・ニクソン会談において沖縄返還の交換条件として繊維輸出規制を認めたとされる「密約」の風評が早くから流れるとともに、財界首脳も日米間の政治問題の拡大に懸念を抱いていた(若泉敬『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』)。
 化合繊長繊維織物の産地である福井産地にとって、対米輸出規制の成否は重大な関心事であった。表165は、ジェトロの発表による福井県産合繊織物の輸出仕向先であるが、七〇年の数字をみると、アメリカは群を抜いて大きなシェアを占めており、数量・金額ともに総輸出の二割強となっている。さらに二、三位の香港、シンガポールは二次製品加工の中継地となっており、ここで加工された繊維製品の多くがアメリカへ輸出されていることを考えると、アメリカの輸入制限がもたらす打撃の大きさが懸念されるのは当然であった。七〇年一二月の県繊維課の試算では、同年四月の輸入制限法案(ミルズ法案)が仮に成立した場合、七一年の福井産地は約三五%の輸出数量の減少をみるとされた(『日刊繊維情報』70・12・9)。

表165 福井県合繊織物輸出仕向地・数量(1970〜80年)

表165 福井県合繊織物輸出仕向地・数量(1970〜80年)
 交渉の経緯を簡単に追ったものが表166である。七〇年秋に政府間交渉が再開されると、抵抗を続ける日本の繊維業界への説得により局面の打開をはかる動きが現われた。宮沢喜一通産大臣や福田一自民党繊維対策特別委員長ら繊維族議員が業界に対して巨額の補償をほのめかしつつ自主規制実施を打診するなか、ミルズ下院歳入委員長の輸入制限条項緩和の示唆により、繊維業界首脳もここが潮時と判断し、一方的自主規制宣言にふみきった(『エコノミスト』71・3・16)。こうした業界首脳の姿勢転換について、福井産地の業界指導部の受止め方も意外に冷静であった。自主規制宣言の公表が明らかとなった二月末の前田栄雄繊維産業連盟福井県支部長の談話は、自主規制宣言の前向きの姿勢での検討は賛成であるが、基準年度、規制枠の点での考慮、極東三国の同一歩調の要請を要するとともに、大幅な救済補償として織機買上げ額の引上げ、政府系金融機関への返済延期、緊急の長期低利融資の実現を期待するという内容であった。補償措置との引換えの受諾であることは自明であった(『日刊繊維情報』71・2・27)。その後、一方的自主規制宣言にもかかわらず、アメリカ側の強硬姿勢により政府間協定の締結を迫られることになった。宮沢の後任の田中角栄通産大臣は業界の反対を押し切って覚書に仮調印し、行政訴訟にまで発展する事態となるが、ここでもその解決手段は、巨額の救済補償であった。

表166 日米繊維交渉の経緯

表166 日米繊維交渉の経緯
 補償の経過について具体的にみてみよう。自主規制宣言が公表されると、ただちに全国の織物産地ではさきの前田の語った補償措置の実現を政府に要請した。当初一台五〇万円で買上げを求めたが、結局、買上げ価格は一台三〇万円として、そのうち政府が転廃業者に対し一台につき二五万円、一部買上げ業者に対し二二万円を支払い、織機六万台(絹人繊織機は二万二五〇〇台)を買い上げることが決定され、七一年度予算に一五一億円が計上された。また、一部買上げ業者の差額三万円については総枠六〇〇億円(絹人繊は一一二億五〇〇〇万円)の政府系金融機関による長期低利融資をあて、残存業者負担となる五万円分についてはその半額の助成を県からうけるよう措置された。おりからの不況の影響をうけて、織機買上げに対して希望者が殺到し、福井県の織機買上げ枠七五四八台に対し、六月二三日現在の仮申込み状況は八五八九台に達した。転廃希望業者も一九二件を数え、その四分の三は二〇台以下の業者であったが、一〇〇台以上の業者も六件あり、なかでも福井市八重巻東町の優秀機業場として県下に知られた白崎織物のボウリング場・ショッピングセンターへの転身は、時代の流転を象徴するできごととして語られた。しかしながら、この時期から市況が立直りのきざしを示しはじめ、さらには巨額の負債の返済のためにやむなく事業を継続する業者も多数あり、本申込みを見送る者があいついで予定を下回る六九一五台の買上げ承認となった。その後も買上げ辞退者が続出し、結局対米自主規制にともなう織機買上げは五七六五台で完了した(『日刊繊維情報』71・4・17、5・16、6・10、18、26、30、9・8)。
 政府間協定にともなう補償については、一〇月に田中通産大臣が織機一〇万台の買上げを打ち上げて検討を開始した。八月の金・ドル交換停止以来、円高により打撃をこうむっていた繊維業界は大々的な救済措置を求め、繊維産業連盟では総額四六三二億円の補償を要求した。福井経済同友会でも円高の影響で福井産地では二万台前後の織機の廃棄が必要となると訴えた。政府は一二月に過剰設備買上げ三七七億円、長期低利融資七五〇億円を中心とした総額一二七八億円の予算措置を七二年度に講ずることを決定した。しかしながら、すでにこの時期から金融緩和や織機の入手条件の好転から、零細機業を中心に織機の増設・更新が盛上りをみせるようになっており、福井産地の買上げ申込みは翌七二年一月はじめで九〇九台にすぎず、最終的には七二年度に五四八台の買上げをみるにとどまった。(『日刊繊維情報』71・10・24、72・1・12、福井経済同友会繊維産業政策委員会『円切上げが本県繊維産業に与える影響』、『通商産業政策史』9)。
 最後に、対米輸出規制は福井産地の輸出にいかなる影響をあたえたであろうか。七一年度の対米輸出実績を基準として輸出の伸び率を年間五%に抑えるという点が対米輸出規制の主たる眼目であった。しかし、実際に対米輸出の伸びは七二年から鈍化したが、これは、輸出規制措置によるというよりも、円高や日本国内のコスト上昇、アメリカ繊維産業の生産体制の整備などにより、日本の対米輸出競争力が低下したためであった。したがって、七三年には対米輸出額が規制枠を大幅に下回り、七五年からは規制緩和の方向へむかったのである。他方、これによって福井を中心とする長繊維織物輸出が打撃をうけたとはいえなかった。さきの表165にみられるように、県産合繊織物輸出は、この後、石油危機、円高の影響をうけつつも総量としては急激な伸びを示した。輸出先として急速にシェアを伸ばしたのは、サウジアラビア、アラブ首長国連邦といった中東の産油国であった。二度にわたる石油価格の引上げを背景に急速な経済成長を示したこれらの諸国へ合繊織物輸出はシフトしたのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ